中学生の孫が、「僕は言霊(ことだま)を信じている」と言うそうだ。それを聞いて私は、このような表現を彼がどこから仕入れたのかと少し驚いたが、同時に、言葉の力について深く考えるきっかけを与えられた。
私は最近、特に詩に心を惹かれる。無論、詩であれば何でもいいというのではない。「芸術とは省略である」と言われるように、徹底的な吟味を経て余分な言葉が省略され、こそぎ落とされて、「どうしてもそこになければならない」言葉だけが溢れ出たような透明な詩が好きだ。例えば、12月10日の説教で引用した島崎光正の作品。
「私の言葉が、私をむしり取る。
私の言葉の中には私の肝臓の一部や腸や爪が入っている
言葉は私自身なのだ」
(中略)
「堪え切れなくなった魂が言葉に載って溢れ出る。
私の中の不断の愛と苦痛の堆肥!
あの中から明日も
言葉の蝶は飛立つだろう・・」。
私がこのような詩に惹かれるのは、今は特に言葉が力を失った時代だからではないかと思う。表面を上滑りする薄っぺらな言葉がそこら中に溢れている。テレビに出てくる芸人だけではない。政治家も学者も、もしかしたら説教者も、多弁だが深く心を打つ力を持たない。森首相に限ったことではないのである。それだけに、「言霊(ことだま)を信じる」という言い方には、切実に共感する。その根底には、この時代に生きる我々の心の深層にある共通の祈りがあるのではないか。
『岩波国語辞典』で「言霊」を引くと、「言葉に内在する霊力。昔、言葉が発せられるとその内容が実現すると信じられていた」とある。この場合、言葉には区別がない。誰が、どんな場合に、いかなる言葉を発しても、それが善い言葉であれ悪い言葉であれ、人を生かす愛の言葉であれ人を殺す呪いの言葉であれ、言葉それ自体に実体的に霊力が備わっていてそれが発揮される、ということである。これは、私がこれから述べようとしていることとは少し違うだろう。
むろん、聖書においても、言葉には力があると信じられている。創世記の冒頭に、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1,3)とあるように、神の言葉は天地万物を創造する力を持っていた。
今日のテキストにも、「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ書 55,10-11)と言われている。
ここで注意しなければならないのは、創世記でもイザヤ書でも、神が語る言葉には力があるが、それは人を呪って破滅させる力でも、憎しみや嫉妬によって人を死に導く力でもなく、いのちを創造し、保持し、養う力である、という点である。
もちろん、神は裁きの言葉を語ることもある。その裁きは厳しい。神は、禁断の木の実を食べたアダムとエバを厳しく問い詰めた。弟アベルを殺したカインに対しても、仮借ない追求が行われた。「ノアの箱船」の時は、人類の大きな罪の故に大洪水によって世界を滅ぼすと神は語った。
だが、圧倒的に力強く語られるのは、この民族を契約の相手として選んだという神の言葉である。アブラハム、イサク、ヤコブなど族長たちに対して繰り返し契約を確認し、モーセに対してはエジプトで囚われの身であったイスラエル人を解放せよと命じてそれを実現させ、シナイの山で神の言葉である「十戒」を授けた。その後もダビデを通して、あるいは預言者たちを通して、神は決して捨てないという契約の言葉を語り続ける。このように、聖書の神は、我々に向かって約束を語る神である。
そして、聖書の中心部には、決定的に重要なメッセージがある。主イエスこそ神の言葉そのものである、ということだ。そして、神の言葉である主イエスにおいて、神の愛が明らかに語られる。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3,16)。
聖書は、この約束といのちと愛の言葉にこそ力がある、と言っているのだ。
ただ、イザヤは、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(8-9節)!と言う。神の道は、いかなる意味でも、人間の思想や体験の中に閉じ込めることはできない。神の言葉は、我々が好い気になって高ぶっている時には引きずり下ろすようなこともするし、我々が絶望に瀕しているような時には全く思いがけない仕方で希望を回復させることもある。このような意味でも、神の言葉には力があるのだ。
そして、この聖書全巻の終わりには、「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る』」(ヨハネ黙示録22,20)とある。つまり、聖書は初めから終わりまで、「神の言葉が歴史の中で貫徹される」という思想で貫かれているのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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