教会に行くと、「神学生」という謎のポジションの人がいます。彼らはそんなに特別で、エラいのでしょうか?
教会に行くと、ちょっと若くて、メガネをかけている、無口で真面目そうなお兄さんがいる。「あのお兄さんは、『神学生』なのよ。偉いわねぇ」とオバちゃんたちが言う。私は、子ども心ながらに、「神学生ってなんぞや」と思っていた。教会の人たちは、「牧師」や「伝道師」に接するように、「神学生」にも接していた。子どもの私から見た「神学生」は、教会の雑務をこなす、アシスタントのように見えた。
大きくになってくると、「神学生」というのは、「神学校」という学校で聖書とかを勉強してるらしい人だと分かった。いずれ、「伝道師」とか「宣教師」とか「牧師」とかになる人たちなんだろうなと思っていた。
私がイエスと出会ったのは、16歳の時だった。すぐに信じた。その時の喜びは、比べようがない。嬉しくて、嬉しくて、たまらなかった。世界が180度変わって見えた。私の夢は、すぐに「牧師になってこの喜びを伝えたい!」というものになった。今でもそれは変わっていない。
そこで、違和感を覚えた。あれ、待てよ。「神学生」は、私と同じ夢を持っているはずだ。このイエスの素晴らしさを伝えたくて、クリスチャンたちを教えたくて、励ましたくて、神学校に入学したはずだ。それなのに、なぜ。私は、今まで出会った「神学生」たちを思い返していた。どうして彼らは、絶望的な顔をしているのだろう。今まで出会った神学生は、それはそれは暗く、無口で、真面目は真面目だが人と関わらず、いつも肩を落としているように、私には見えた。
もっと大人になると、だんだんと問題点が見えてきた。今回は、「神学生」という呼び名にそもそも意味はあるのか。「神学生」を特別扱いするデメリット。「神学生」と他を区別することで起きる怠惰の危険性、について書こうと思う。
まず、「神学生」という呼び名を考えたい。「神学生」とは、「神学校」という学校に通っている人を指す。では、「神学校」とはどういうところなのか。聞いてみると、聖書や神学、ヘブライ語やギリシャ語を学ぶのだという。組織神学とかよくわからんやつもやるらしい。
つまり、簡単にいえば、「神学校」というのは、「聖書」や「キリスト教」を学んでいる大学院である。「神学生」はそこで学ぶ「大学院生」である。たまに学士からの神学校や、博士課程の神学生もいるが、とにかく、「大学生・大学院生」と変わりがない。つまり、教会では、なぜか「ただの大学院生」に「神学生」というラベルを与え、呼んでいるのだ。
呼び名だけならば、まだいい。しかし、多くの場合、「神学生」には、過剰な期待がかけられる。「牧師や宣教師、伝道師のたまご」という目で見られ、品行方正な生き方を期待される。「教会のことは手伝って当たり前」というプレッシャーがかけられる。聖書に詳しく、どんな質問にも的確に答えられるという印象をもたれる。素晴らしい人格者。ピアノやギターもできる。そんな期待が、「神学生」という呼び名に、無意識に込められている。
誤解を恐れず言えば、この期待は全くの間違いだ。神学校に言っている学生は、そのような人ではない。ただの大学院生だ。他の工学部の大学院生や、法学部の大学院生と、何ら変わりはない。ただの学生に、そのような期待をかけてしまうのは、筋違いだ。
もっと誤解を恐れず言えば、神学生の中には、「他に行くところがなかった」という人もいる。社会で失敗してしまった、活躍できなかった、認めてもらえなかった。そのリベンジとして来ている人も、実際のところ、いる。これは悲しいが、現実だ。私の友人は、都内の大学院を卒業後、ある神学校に入学したが、こう言っていた。
「神学校に行けば、もっと聖書のことを学べると思っていたけど、勘違いだった。そもそもクラスメイトに、勉強ができない人が多すぎる。大学レベルのことについていけていない。彼らのペースに合わせるので、授業の進みが遅く、すごくフラストレーションがたまる。これなら、自分で本を読んで勉強する方がマシだった」
(とある”神学生”のつぶやき)
彼は、そう落胆し、神学校を退学した。「神学生」は、学力面で実は一介の学生より劣っていることもあるのだ。
もっと言えば、牧師や宣教師にもそのような期待をするのも筋違いである。私たちが、期待をおける人間はいない。「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした」(マタイ11:11)というのは本当なのである。
人間に期待はできない。では、誰に期待ができるのか。私たちが期待をおける方はただ一人、神であるイエスである。それ以外は、みな同じ人間だ。ミスもするし、不完全で、時代の枠から出ることのできない存在である。聖書にはこうある。
どんな知恵も英知も、はかりごとも、主(神)の前では無きに等しい。
(箴言 21:30)
彼らは、「聖書について勉強をしている」というだけの学生である。彼らが聖書を研究しているように、法学部の学生は法律を研究している。会社で働く人間は、働くスキルを極めている。そこに、上下関係はない。どちらが偉くて、どちらが劣るという関係ではないのである。「神学生」というラベリングに、意味はない。
この「神学生」、かわいそうなことに、いらないプレッシャーと日々戦っている。先に述べたように、教会の中では、他の人と区別され、比較され、過剰な期待をかけられる。それが分かった時、私は、「ああ、だから僕が出会ってきた『神学生』はみな、無口で、表面だけ真面目で、人と関わらなかったのか」と納得した。彼らは、この意味不明な期待に応えようとするあまり、ボロを出すまいと、人との関わりを避けていたのである。なんとかわいそうな神学生! 彼らは、必死で素の自分を隠し、表面上の「神学生」を演じていたのだ。
神学校によっては、「携帯電話の使用禁止」や、「異性と会うのを禁止」(または許可が必要)しているところもあるという。これには開いた口がふさがらない。お前ら、いつの時代のアーミッシュだよ。と言いたくなる。今日び、アーミッシュの若者は馬車でデートし、ユダヤ人の超正統派だってナイショでケータイを使ってるし、ナンパもしているのに・・・。キリスト教だけが時代遅れ。そのような禁欲主義は、隠れてコソコソする技を身につけるだけだ。だから、牧師のカネ・女問題は後を絶たない。ああ残念だ。そのような禁欲主義は「肉のほしいままの欲望に対して、何のききめもない」。猛省せよ。
もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。
(コロサイ人への手紙 2:20~23)
クリスチャンは、もう一度、「ラベリング」をやめる必要がある。牧師だろうが、宣教師だろうが、牧師の子どもだろうが、神学生だろうが、クリスチャンの家庭に生まれていようが、大人になってからクリスチャンになっていようが、全くもって関係ない。クリスチャンは、同じ、「赦された者」として、お互いを「不完全で弱い存在」だと認め合いつつ、愛し合う必要がある。お互いに、支え合い、助け合う必要がある。そして、足りないところを補い会い、それぞれの役割を果たすことで、成長していく必要がある。
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(中略)
キリストによって、からだ(共同体)全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
(エペソ人への手紙 4:13~16)
福音を語ったり、福音に生きるのは、牧師や神学生だけの役割ではないのだ。
「神学生」というフレーズを使うと、怠惰になる危険性がある。それは、無意識に「神学生」と自分を区別してしまい、自ら学ばなくなるという危険性である。聖書を見れば、「自分で聖書を読む」のがいかに大切か分かる。
この町(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。そして彼らのうちの多くの人たちが信じた。
(使徒の働き 17:11~12)
ベレヤの町の人々は、パウロが伝えた話も鵜呑みにせず、聖書を自分たちで調べて、そして信じるという判断をしたのである。聖書は、それを「素直で熱心だ」と表現している。新改訳第3版では、彼らは「良い人たち」と表現されている。
もちろん、「牧師」や「神学生」はそれなりの時間や労力、財力を投資して、聖書を学んでいる(学んでいた)はずである。だから、彼らの知識にあずかるのは、方法論としておおいにアリだ。むしろ、効率が良いので、どんどん教えてもらったらいいと思う。しかし、「彼ら"しか"語る資格がない」と考えてしまっては黄信号。その失敗を犯したのは、ローマ・カトリックで、最終的には、「一般信徒は聖書を読む資格がない。司祭が聖書を読み、信徒は聞くのみ」という文化になってしまった。それに異を唱え、「聖書は誰でも読める」としたのがルターの宗教改革だった。
そもそも、なぜ大学に行くのだろうか。それは、「その大学にしかない情報、つまり蔵書や論文を読むため」である(もちろん他にもあるが、私の言いたいことを汲み取ってほしい)。かつては、新しい情報を得るには、本や論文を読むしかなかった。だから人々は大学に集い、本を熱心に読んだ。
その前提に立つと、現代において、大学に行く意味はなくなったとは言わないが、薄まったといえるだろう。なぜなら、ある程度の本、論文、情報は、インターネットを通して、自分の手に入るようになったからだ。インターネットの開発のそもそもの目的が、遠くにある大学の書籍や論文を読めるようにするためのシステムだったと言われている。今や、死海文書もgoogleで読める時代になった。また、様々なセミナーなど、学ぶ機会も、神学校以外にたくさん提供されるようになっている。学ぼうと思えば、いくらでも学べる時代が来ているのである。学ぶリソースはいくらでもある。「神学校」なんてところにいかなくても、いくらでも学べるのだ。
クリスチャンは、自分で学ぶという努力を、怠ってはいないだろうか。自ら学ぶことができない人は、神学校に行っても、結局、授業がツマラナイだとか言い訳をして、学ばない。結局は、学ぶ心、学ぶ姿勢があるかどうかなのだ。まず、自分自信で学ぶ気概を持とうではないか。
オマケに、クリスチャンの世界には、まだまだ謎の呼び名がある。私は、こんなくだらないラベリングは、即刻やめればいいのにと、悲しく思っている。今回は、2つ解説しよう。
【PK】
・Pastors Kidsの略。「牧師の子ども」という意味。某ゲームキャラクターの必殺技、「PKファイヤー」ではない。牧師の子どもと、他の子どもに何の区別も差別もないはずなのに、なぜかこうやってラベリングをする。周囲は、「牧師の子どもだからイイ子に違いない」という間違った印象を持ち、自分たちは「真面目に生きなきゃ」という、間違ったプレッシャーを感じている。冗談でよく、「Problem Kids」の略だとも言われる。牧師の子どもであろうが、他の子どもであろうが、本質は同じ。この呼び方には、デメリットだけがあって、メリットが全くない。何がPKじゃ。サッカーじゃねえんだからさ。
【かたくりこ】
・「片親だけがクリスチャンの子ども」の意味。両親どちらかだけがクリスチャンというパターンは以外に多く、このようなジョークの呼び名がついている。これも、ナンセンスだ。クリスチャンの信仰は、親によるものではない。自分でイエスを信じるかどうか、ただそれ一本のみである。このような呼び名がつくと、「片親だけがクリスチャンだと劣等だ」と感じる人もいるのではないか。そんなことは全くない。この呼び名も、センスが全くない。福音を理解していない。他にも、「モンブラン」という呼び方もあるそうだが、意味が分からないので誰か教えて。
こんな呼び名にいちいち腹を立てるなと思う人もいるかもしれない。しかし、逆に言えば、このような小さなことから変えていかなければ、無意味なプレッシャーをお互いに与え続ける、教会の悪い習慣は、変わらないと思う。
最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
(ルカの福音書 16:10)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
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Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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