教会で繰り返し唱える「主の祈り」、同じ言葉を繰り返して唱えるのに意味はあるのでしょうか?
「主の祈り」は、現代でも多くの信者が唱える有名な祈りの文言だ。礼拝会で、毎回「主の祈り」を暗唱する教会も多い。これは、イエスが「このように祈りなさい」と教えた祈りだ。マタイの福音書とルカの福音書に記述がある。マタイの方を紹介しよう。
(イエスは言った)ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」
(マタイの福音書 6:9~13)
なるほど。確かに、イエスはこのように祈れと命じている。だから、今日でも教会で、クリスチャンたちがこの言葉を繰り返し暗唱しているのだ。
どうしてイエスは「こう祈りなさい」と教えたのだろうか。ちょっと立ち止まって、前の文脈も見てみよう。
(以下、全てイエスの言葉)
また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、街道や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父(=神)に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、あなたがたはこう祈りなさい・・・(マタイの福音書 6:5~9)
違和感を覚えないだろうか。「祈る時、同じことばをただ繰り返してはいけません」とある。イエスは、その後で、「こう祈りなさい・・・」と教えているのである。それならば、「主の祈り」を繰り返し唱える習慣こそが、「同じことばをただ繰り返している」状態ではないだろうか。私は、子どもの頃からこの矛盾が心にひっかかり、ずっとオカシイな・・・と思っていた。 今回は、この「主の祈り」の矛盾について書く。
イエスは、「同じ言葉を繰り返すな」と言ったあとに、「このように祈れ」と命じた。この言葉をただ繰り返し唱えるだけでは、イエスの命令と矛盾してしまう。
では、どう考えたらいいのか。答えはシンプルだ。発想の転換をしてみよう。イエスは、「この言葉を繰り返し唱えよ」ではなく、「このような内容で祈ってごらんなさい」と言ったと考えればよいのだ。つまり、「主の祈り」の文言は、ただそのまま繰り返すためのものではなく、自分の言葉で祈るためのガイドラインと捉えるのだ。こう考えれば、「同じ言葉をただ繰り返す」ことにはならない。
主の祈りは、基本的な祈りのポイントを抑えた、とても大切なものである。そのポイントを抑えるために、主の祈りを暗唱するのは良いことだと思う。ただ、呪文のようにこの言葉を繰り返すのではいけない。「主の祈り」の中身をしっかりふまえた上で、心から祈る必要がある。
では、主の祈りの中身とはどんなものだろうか。今回は「主の祈り」を以下の8つに分割して考えてみる(前半は1〜4について書く)。
【主の祈りの8つの要素】
1:神への呼びかけ
2:神の名を賛美する
3:御国の到来を願う
4:神の計画の成就を願う
5:必要の満たしを願う
6:罪の赦しを願う
7:赦しを受けた後のリアクション
8:悪からの救済を願う
最初の一文は、いつも見逃されがちな、大切な祈りの要素だ。「主の祈り」はこう始まる。
天にいます私たちの父よ。
これこそ、大切な祈りの要素である。祈りのはじめに、神を「私たちの父」と呼んでいるのだ。これは、ユダヤ人にとっては、びっくり仰天のパラダイムシフトだった。彼らにとって神は「イスラエルの父」であっても、「わが父」とはとても呼べるような存在ではなかった(※筆が進みすぎたので詳しくは別記事で)。
しかし、神は、私たちを「子ども」としてくださったのである。
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
(ローマ人への手紙 8:14~15)
本来、イスラエルの民ではない、外国人の私たちは「神の子ども」ではなかった。しかし、イエスを通して、神は私たちへの愛を示してくださった。そして、聖霊を与え、外国人である私たちさえも「子ども」としてくださったのである。神が私たちを「子ども」としてくださったからこそ、私たちは神を「わが父」と呼べるのである。
また、「天にいる」という部分も大切だ。私たちの神は天におられる、全てを治めている神である。神の偉大さ、そのキャラクターを宣言し、そして「私たちの父よ」と呼びかける。これが、祈りの始まりなのである。
実際に、こう祈ってみたらどうだろうという、例をいくつか挙げる。あくまで、例であって、いろいろな形があって良い。
<祈りの例>
●天にいるお父さん・・・●この世界の全てを造った神様・・・
●愛する天の主よ・・・
●王の王である天の父よ・・・
「主の祈り」は、以下のように続く。
御名が聖なるものとされますように。
「呼びかけ」の次の要素は、「賛美」である。しかも、単純な賛美ではない。伝統的な言い方では、「願わくは、御名を崇めさせたまへ」と祈る。この表現には、「あなたを賛美します」以上の、奥ゆかしさが表れていると思う。
本来、人間は神を賛美することすら値しない存在である。ちっぽけで、神様に向かって言葉を発するのすらためらわれる弱い存在、それが人間だ。旧約聖書の時代は、神の顔を見ただけで「死んでしまう」とされていた(士師記13:22、イザヤ6:5)。それほど神は恐るべき存在なのだ。だから、せめて「願うことなら、あなたの名前が崇められますように」と言うのだ。
もちろん、「神を賛美してはいけない」とはならない。ただ、神はそれほど恐れ多い存在なのだと知らないといけない。神への恐れを理解すればするほど、その神ご自身が、人(イエス)となって地上に下り、死んでまで愛してくれたというのが、どれほど、めちゃんこスゴイのか、理解できるようになるからだ。
<祈りの例>
●神様、あなたの名前が聖なるものとされますように・・・
●全世界で、あなたの名前が崇められますように・・・
●あなたの素晴らしさを、賛美させてください・・・
●あなたはどれほど恐れ多い方でしょうか。あなたの前にひれ伏します・・・
さて、「呼びかけ」、「賛美」の次は、「願い」に入る。しかし、自分の満たしを祈るのではない。3番目は、「御国の到来を願う」祈りだ。
「御国」というのは、言い換えれば「天国」のことだ。「天国」といっても、大方の読者の方々が想像するような天国とは、少しニュアンスが違うと私は思っている。天国は「行く」ところではなく、「来る」ものなのである。もっと日本語的に言えば、「天国は実現するもの」なのだと、私は思っている。だから、イエスも、「天国に行けますように」と祈れと言っていない。イエスは、こう祈れと教えている。
御国が来ますように。
詳しくは別記事を書く予定だが、この世の終わりに、イエスは再び地上にやって来る。そして、「新しい天と新しい地」を創造する。これが完全な「御国」、福音書では「神の国」と表現する状態である。では、「御国」は、いわゆる「世の終わり」まで実現しないのだろうか。私は、違うと思う。
イエスはこうも言っている。
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」
(ルカの福音書 17:20~21)
もし「御国・神の国」が、世の終わりまで実現しないのであれば、「神の国はあなたがたのただ中にある」というのは矛盾してしまう。では、どういうことなのか。
こう考えてみたらどうだろう。「神の国の完全な実現は、イエスがこの地上に帰ってきて、新しい天と地を創造するときだ。しかし、そのエッセンス、その状態は、この地上でも実現可能である。神の国は、人と人との人間関係の間に実現する」と。
「あなたがたのただ中にある」というのは、とても重要な言葉だ。人間がひとり、どんなに正しく生きても、そこに「神の国」は生まれない。人と人との人間関係の間に、「神の国」は実現する。私たち人間は、一人ひとりが「ミニ・イエス」となり、人と人が個人的に愛によってつながる時、そこに「神の国」の状態が現れる。一瞬かもしれない。不完全かもしれない。しかし、確かに「神の国」のエッセンスはそこに実現する。
だから、「御国が来ますように」というのは二重の意味があると思う。
ひとつは、イエスが帰ってくるのを待ち望むこと。これは、聖書にも書いてある。
そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
(ペテロの手紙第二 3:12)
もうひとつは、今生きている地上で、「神の国」のエッセンスが実現すること。互いに愛し合うという、イエスの教えによってそれは実現する。
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
(ヨハネの福音書 13:24~25)
何より、「神の国」は第一に求めるべきものである。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
(マタイの福音書 6:33)
他の何よりも、まず「御国」を願う。そうすれば、その他の「願い」は全て与えられるのだ。だから、一番最初に祈るべき、一番重要な願いは、この「御国」なのである。
<祈りの例>
●あなたの御国が、早く来ますように・・・
●イエスさま、早く帰ってきてください・・・
●あなたの「御国」の一部でも、この地上で実現しますように・・・
●「神の国」が来ますように。そのために互いに愛し合えますように・・・
ここで、不思議な言葉が出て来る。「みこころ」だ。本来の日本語にはない。簡単に言えば、「神の計画」を指す。聖書を気仙沼の方言で翻訳したことで有名な山浦玄嗣氏は、この「みこころ」を、「神様のお取り仕切り」と訳した。山浦氏がおじいちゃんなので、ちょいとばかり古めかしいが、名訳である。現代風に訳せば、「神様のご意向」とでも言おうか。「天の思し召し」でもいい。要するに、「神様の計画通りに物事が進みますように」という意味だ。
その上で、今一度イエスの言葉を見よう。
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
まず、この祈りの前提として、「天では神の計画通りに物事が進んでいる」という考えがある。未だかつて天に昇った者はいない(ヨハネ3:13)、それゆえに、天の実情は誰もわからない。しかし、かつて天にいたイエスが言うのであれば、真実なのだろう。
問題は、この地上での神の計画の成就だ。この地上でも、神の意向がなるように、祈る必要がある。だからイエスは、「地でも行われますように」と祈るよう教えたのだ。
日本人は、これにピンとこないようである。「神がいるなら、どうして世界に戦争があるのか」「神がいるなら、どうしてこんなひどいことが私の人生に起きるのか」・・・よく聞く疑問である。詳しくはまた別記事を書くが、神がこの世の中の基準で、何か自分に良いことをしてくれる存在だと思ったら、大間違いである。神はご利益をくれる、都合のいい存在ではない。そんなスケールで神を考えること自体が間違っている。
聖書そのものが、神が真実であり、人のスケールで神に物申すのが、いかに的外れかを指摘している。
私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(テモテへの手紙第二 2:13)
ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師(神)を粘土(人)と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。
(イザヤ書 29:16)
すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか」人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」といえるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。
(ローマ人への手紙 9:19~21)
人は、常に神の方向とは違う方へ進みたがる性質を持っている。世の中、なぜかそういう方向にベクトルが働いているのだ。だから、「神の計画が、天で完璧に遂行されているように、この地上でも、どうかそうなりますように。人間は神の意思とは違うベクトルに進みがちです。どうか神の計画が成就するようにしてください」という祈りが必要なのである。
<祈りの例>
●どうか、あなたの計画が実現しますように・・・
●自分の思いではなく、神の思いを行えますように・・・
●天では完璧な愛が満ちているように、愛がない自分が愛を実行できますように・・・
●自分にベクトルを向けるのではなく、神に、目の前の一人の人にベクトルを向けられますように・・・
「主の祈り」の順番は、とても精巧だ。まず、1:神に呼びかけ、2:神を賛美し、3:神の国の実現を願い、4:神の計画の実現を願う・・・。
「主の祈り」の前半に、「自分のお願いごと」は、ほぼ入っていない。もちろん、「神の国の実現」や「神の計画の実現」が、心から自分のお願いごとになっているのであれば、素晴しい。でも、現実、人間は弱い存在だ。なかなかそうはならない。そんな弱い人間のために、イエスは、「こう祈ったらブレないぜよ」とガイドラインを与えてくれたのだ。
次回は、「主の祈り」の後半に入る。後半の祈りは、より生活に迫る、現実的に人間が必要とする祈りの内容になる。
★後編はこちら★
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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