来週から、主イエスの受難を記念する「受難節」(レント)が始まる。今日はその直前の日曜日。説教テキストにこの個所が選ばれたのは、このためであろう。
どの福音書でも、「イエスの受難」という事実の反響は全体を通じて通奏低音のように響いている。これは、既にクリスマスの記事から始まっている。福音書を書いたのは、十字架と復活の出来事に深い印象を与えられた人々だから当然のことだが、その中で、受難の運命をはっきりとした言葉で予告している個所が三つある。ルカの場合、9章21節以下が最初だ。「自分の十字架を背負って私に従いなさい」という命令と結びつけて、詳しく書いている。次が9章44節で、ここではごく簡潔に暗示するに止めているが、今日の18章31節以下では再び要点を省略せずに記している。
受難と復活は三度予告されているわけだが、この「三度」ということが重要である。マルコ福音書の「ゲッセマネの祈り」の場面によって、その意味を説明したい。
イエスは十字架につけられる前夜、ゲッセマネの園で、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけて下さい」と、三度祈ったという(マルコ 14,32-42)。この場合の「三度」は、心の底から、腸を絞り出すようにして徹底的に祈った、ということであろう。
だが、イエスがそのように祈っている間、彼が最も信頼していた弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネは眠りこけていた。イエスは彼らをたしなめて三度注意を与えたが、彼らは眠り続けた。この場合の「三度」は、弟子たちの不真実が半端ではなかったことを示している。その後、ペトロがイエスを三度「知らない」と否定したことも同様だ。
二度までは「偶発的な間違い」が重なるかもしれない。だが、二度と三度は決定的に違う。三度となると、もはや「偶発的」と言い訳することはできない。「仏の顔も三度」と言うではないか。
それ故に、福音書記者が「受難と復活の予告」を三度書いたのは、「ここにイエスの生涯の意味がある」と、力を込めて宣言するためである。彼が苦しめられて死んだということは、「不幸な偶発事故であって、本当はなかった方が良い」というようなことではない。イエスは実にこのために生まれてきたのである。
私はこの頃、「この世は苦しみで満ちている」ということをしばしば感じることがある。もちろん、苦しみだけではない。有り難いことに、美しい自然や、才能ある人々が生み出した素晴らしい音楽や芸術もあるし、善良で優しい人々もいる。だが、時としてそれらを圧倒するようにして、「この世には何と多くの苦しみがあることだろう」という悲しみが我々を襲う。
苦しみというものは、多くの場合、理不尽なものだ。相次ぐ大災害で命を失い、愛する家族や生活の基盤を失った人々のことを考える。どうしてこんな苦しみに遭わなければならないのか。
「えひめ丸」の事故で夫や前途ある息子を失った人々の心にも、アメリカ海軍の無責任さに対する怒りと共に、「どうしてこんな理不尽な悲しみに遭わなければならないのか」という、より根源的な問いがあるであろう。
さらに私の心を悲しませるのは、幼い子供が大人たちによって(時には親によって)虐待され、殺されるというニュースが最近重なることだ。これほど理不尽なことはない。この理不尽さを鋭敏な感覚で描いたのは、ドストエフスキーだった。彼の作品には、子供たちの深い苦しみがしばしば出てくる。どうしてこんな苦しみに遭わなければならないのか。神様、どうしてこんな事をお許しになるのですか。
この世界の歴史の中には、このような理不尽な苦しみの山並みが連なっている。ホロコーストや南京大虐殺事件などで殺された人々、強制的に「軍隊慰安婦」にさせられて辱められ、言うに言われぬ苦悩を負わされた人々、等々。
そしてその中に、イエスの十字架も立っているのである。このことの深い意味を、我々は知らなければならない。
一緒に十字架につけられた犯罪人の一人が、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(ルカ 23,41)と言ったように、イエスは何も悪いことをしたわけではない。彼はただ、人を真剣に愛した。場合によっては律法違反の罪を引き受けても構わない。それほど真剣に、底辺に生きる人々を大切にした。そのために彼は、「侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打たてから殺される」(32-33)。これは、理不尽である。だから彼は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15,34)と叫んで死んだ。不思議なことにルカはこの言葉を伝えていないが、マルコやマタイによると、イエスはこの絶対的な孤独と絶望の中で死んだのである。
だが、このことは深い意味を持つ。神の子が、同じように理不尽な苦しみを受け、絶対的な孤独と絶望を味わされている多くの人の側に立った、ということである。どん底の苦悩の中で、「誰にも理解しては貰えない、誰も慰めてはくれない」
Nobody knows the trouble I've seen, nobody knows my sorrow.と思っている人々に対して、イエスは、従って神は、「いや、私はあなたと同じ所にいる」と答え給うのだ。
それだけではない。理不尽な苦しみ・絶対的な孤独・絶望で終わるのではない。三日目に復活する!
福音書に予告されているのはこのことに他ならない。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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