来なさい。休ませてあげよう

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

⇒(MP3, 32kbps)

「来なさい。休ませてあげよう」

中村吉基
ゼカリヤ書9:9,10;

 先週、私たちの教会が属する東京教区の西南支区の按手(あんしゅ)礼と准允(じゅんいん)式が行われました。残念ながら今年は一堂に会することができず、インターネットを介してのライブ中継でした。私はこの礼拝堂にパソコンを持ち込んで、祈りを合わせました。4人の若い先生たちが准允=これは「説教することを許可される」という意味ですが=をお受けになり伝道師になり、私の友人でもある一人の伝道師が按手を受けて牧師になりましたが、私はこの場所から映像に手をかざして「エア按手」とでもいうのでしょうか。祝福を致しました。

 必ずその式では新しい伝道師、牧師が各自、所信表明というか証しをされるわけですが、それは期待に満ちて、これから教会に仕えていこうとする素晴らしい言葉の数々でした。まだ私も若僧のはしくれです。自分が伝道師になり、牧師になったことを思い出しました。何かフレッシュな気持ちにさせられ、インターネットを介して参加できてよかったな、と思いました。

 ある伝道師からは「50年後の日本基督教団と教会はどうなっているでしょうか」という言葉も飛び出しましたが、私が心を打たれたのは、友人の牧師の証しでした。それはこういうものでした。

 「人に寄り添う牧師になりたい。そう願っていました。しかし、伝道師としての牧会を通して、痛切に思い知らされたのは、人に寄り添うことの難しさでした。自分の傲慢さでした。口では簡単に「人に寄り添う」ということが言えます。しかし本当に「人に寄り添う」ということは自分を無くしていくということです。自分の生き方を崩していくということです。……果たして人はほんとうの意味で人と「寄り添う」ということができるのでしょうか。……ですがほんとうの意味で人と「寄り添う」ことができる方がいらっしゃいます。神がこの世に遣わしてくださったイエス・キリストです。……神は力のない私に寄り添ってくださいます」。身体の力を振り絞るようにして語る新しい牧師の言葉に画面越しに私は「アーメン」と応答しました。

 今日、私たちに届けられました福音は、まさに私たちに寄り添ってくださるイエス・キリストの姿です。今日の箇所は、主イエスの祈りから始まっていきます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」実際にはこのように形式張った、仰々しいものではなかったと思われます。「お父ちゃん」というような親しみを込めた呼びかけから始まっていきます。そしてこれはそれまでのユダヤ教の神に対する見方を180度変えてしまうようなことでした。神は天の遥か遠くにいるのではなく、ごくごく身近な存在として、「お父ちゃん」と呼びかけることは当時の人たちにとってみればびっくり仰天したことでしょう。

 主イエスの祈りにある「これらのこと」というのは神の国の福音、救いの教えです。しかし主イエスがさまざまな場所で教えても、無理解どころか声高に反対を表明する人、妨害までする人たちがいました。ユダヤ教の指導者たちです。

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(25節)。

 「知恵ある者や賢い者」とは、ユダヤ教の指導者たちのことです。主イエスは揶揄して言ったのでしょうか。少なくとも尊敬を込めて言っているようには聞こえてきません。それよりも神は「幼子のような者にお示しに」なったのです。ある聖書はここを「不器用な者たち」と訳しています。決して子どもたちを指しているわけではなさそうです。幼子のような柔らかい真っ白な心を持った人びとを神は救いをくださるのだということでしょう。

 しかしこれに対して、ユダヤ教の指導者たちは面白いわけがありません。ファリサイ派の人たちは律法を忠実に守ろうと律法に細則までつくってそれを守ることによって救われると考えていました。しかし律法を守ろうとすればするほど、心が離れていってしまうのです。なぜでしょうか。律法を守れない、守り抜くことができないからです。人間の力には限界があるからです。私たちの信仰というのは、滝に打たれるとか、修行をして到達するものではありません。一生懸命に信仰の要点を勉強して、試験を受けて免許皆伝ではありませんが、「今日から信じてよろしい」と言われるようなものではありません。

 主イエスがこの私を選んでくださった。今この礼拝にいらっしゃっている方々、私も含めて人生のある時に、イエス・キリストに出会って、それぞれが全く違う道を通ってきて、主イエスに結ばれています。それが私たちの共通点です。そして私たちもこうしてこの教会を通して信仰共同体を形作っています。それらはすべて、「不器用な」私たちが、主イエスに招かれて「今、ここ」にいることがゆるされているのです。

 主イエスは今朝私たちにこのように呼びかけてくださいます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(28節)

 よくあちこちの教会の看板で見かける聖句です。しかしそれを見るたびにキリスト教会とは奇特なところだと思うのです。もしも教会以外のところの看板だったら、例えば店先でパートとかアルバイトの募集をしていたとしまう。「明朗な方、健康で快活な方募集」とか書きそうじゃないですか。でも教会は主イエスの招きの言葉を掲げています。今も掲げ続けています。ある人によれば「疲れた者」とは身体が疲れている人、重荷を負っている人とは「精神的な重圧」を指すと考えられているようですが、一昨年発売された「聖書協会共同訳」では「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」となっておりますので、この訳し分けはさほど重要なことではないと思われます。

 皆さんにとっての「疲れ」や「重荷」とは何でしょうか。それぞれに言葉に言い尽くせないものがあるだろうと思います。しかし主イエスは、「わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と今この時も呼びかけておられるのです。

 続けて主イエスはこのように仰せになりました。29節の途中からです。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 今年度水曜日の「祈り会」は現在Zoomで行っておりますが、この日曜日の礼拝で読まれる福音のわかちあいをしています。先週の水曜日は今日の箇所を読んでわかちあいをしたわけですが、皆さん、この「軛(くびき)」というものに対してあまり良いイメージを持っていない方が多かったように見えました。何か私たちから自由を奪ってしまうような「軛」。もしそれを言うならば「律法」による軛です。律法を守るだけの信仰、行いだけや形式だけで中身のない信仰は人を救いません。

 今、「軛」という言葉はほとんど使われないどころか、軛自体を見たことがないという人も多いのではないでしょうか。今日の礼拝式文の中に軛のイラストを載せておきました。教会のホームページからお聞きになっている方は、軛を検索していただくとさまざまな画像やイラストが出てくることと思います。

 軛は2頭の動物、馬や牛を一つに合わせるために綱や木の棒を使う道具のことです。主イエスは律法の軛は人には負いきれないで、疲れ、重荷を追わせてしまうのだけれども、主イエスが与えてくださる軛は負いやすいのだというのです。それはなぜでしょうか。

  この軛という道具は、動物ががんじがらめにされて自由を奪われているように見えますが、2頭の動物が合わされば、2倍の力が出るのかと思いきや、それは4倍になるのだそうです。不思議ですね。これを主イエスと私たちになぞらえてみます。イエスさまと私たちが2人3脚で歩むと、私たち一人では出せないような力が与えられるのです。そして牛はまっすぐに歩くことができないのだそうです。しかし軛を使えばそれができるようになる。


 私たちの人生の道もなかなか真っ直ぐに歩くことができない。あちらに行ったりこちらに行ったりとしていないでしょうか。しかし主イエスと歩むとどんな人でも真っ直ぐに人生の道を歩いていくことができるのです。主イエスご自身が私たちに「寄り添って」歩んでくださいます。

「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)

 主イエスと共に新しい一週間に出かけましょう。


 
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