力の支配に抗して(2)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。(ルカ2:14)

前回は、シモーヌ・ヴェイユのエッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」に基づいて、万人を奴隷にする力の支配について考えました。

誤解のないように書いておきますと、このエッセイが好きだからと言って、私はヴェイユがそこに書いている内容のすべてを肯定しているわけではありません。それどころか、プラトン的な二元論、またキリスト教のヘブライ的ルーツに対する不当に低い評価といった、個人的にまったく同意しかねる部分もあります。けれども、そのためにこのエッセイ全体を否定するのは、まさに産湯とともに赤子を捨ててしまうような愚であると思います。私にとってヴェイユが典型ですが、ひとりの人の思想の中に、まったく同意できない部分と、おおいに共感できる部分が同居していることがあります。そこがヴェイユの不思議な魅力になっているとも言えます(過去記事「クリスマスの星」も参照)。

ともあれ、前回紹介した彼女の「力」の概念は非常にすぐれた洞察であり、今日もその輝きを失ってはいません。むしろその意義はますます大きくなっていると言えます。今回はこれを足がかりに、新約聖書に目を向けてみたいと思います。

マルコ福音書にはイエスの次の言葉が記されています:

42  そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。43  しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、44  あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。45  人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ10:42-45)

この箇所でイエスは、まさにヴェイユが語ったように「力の支配を知り、しかもこれを尊重しない」すべを知る存在、したがって愛と正義を行使しうる存在として描かれています。この地上では、権力者たちが力によって人びとを支配します。しかしこのような力の行使は、被支配者だけでなく権力者たち自身をも非人間的な「もの」に変容させてしまいます。結局のところ、すべての人間は力の支配下に奴隷となっているのです。

しかし、ここでイエスは地上で働く力とはまったく異なる種類の「力」について語り始めます。それは父なる神がイエスに与えられたような種類の「力」です。その力は上に立つ者が自己犠牲的な愛をもって他者に仕えるようなかたちで表される「力」なのです。

神の王国における「力」は、人が愛のゆえに地上的な力を行使することを拒絶するという逆説的な形で表されます。イエスは受難物語の中で、自らその模範を示しました。

52  そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。53  それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54  しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。(マタイ26:52-54)

キリストの逮捕

ルカ福音書では、最後の晩餐の文脈で上のマルコの箇所と同様の教えが語られた後、イエスは弟子たちにこう語ります:

29  それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、30  わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。(ルカ22:29-30)

ここではイエスが弟子たちに約束している、終末における神の王国で表される「力」もまた、同様に理解しなければならないことが暗示されています。弟子たちがイスラエル(神の民)を「さばく」というのは、彼らが専制君主のように他の人々を支配するという意味ではなく、ちょうどイエスが弟子たちに仕えたように、へりくだって神の民に仕えるということなのです。

イエスによる、このような逆説的な「力」の教えは何を意味しているのでしょうか? 地上的な意味での力の行使は、それを用いる者も受ける者もともに「もの」化し、神のかたちとして創造された人間の尊厳を破壊するものと言えます。これに対して神の「力」とは、人間が人間として扱われ、その創造の目的を最大限に発揮して生きることを可能にするようなしかたで働きます。

そうであるならば、イエスが地上的な力の行使を拒絶したのは当然ですし、同時に神の国の「支配」や「力」は必然的に地上的なそれらとは本質的に異なるものでなければなりません。別の言い方をすれば、地上的な力の支配とは、神のよき作品としての被造世界の堕落のあらわれであって、神の国の到来とは、そのように堕落した世界が神の本来のよき目的にしたがって回復することなのです。

ヴェイユが「『イリアス』あるいは力の詩篇」で扱っていない重要な主題は復活であり、新創造です。そこでは圧倒的な力の支配の前に滅びゆくものに対して苦渋の念をいだき、力に対して断固たる「否」を突きつけることが結論として語られますが、力が支配するこの世界そのものがやがて変えられる可能性には触れられていません。(その理由は彼女のプラトン主義的理解にあるような気がしますが、ここで深く立ち入ることはしません。)

しかし、イエスは神の国の到来について語り、死者の復活について語りました。この地上における力の支配はやがて終わる時が来るというのです。ただしそれは、この世の暴力がそれよりもっと強力な神の暴力によって打倒される、ということではありません。もしそうだとしたら、力の支配という点では状況はまったく変わらないことになります。そうではなく、この世の力は、それとはまったく別種の「力」――パウロが語った「救を得させる神の力」(ローマ1:16)――によって無力化され、溶かされ、置き換えられていくということなのだと思います。これこそ「ほふられた子羊」、「平和の君」であるキリストが愛によって支配する永遠の王国です(こちらを参照)。

神の国とは、このような異次元の「力」の現れにほかなりません。それは、暴力が空気のように充満した世界においては「真空」のように稀で不自然に見える、神の奇跡的な恩寵のあらわれです。現在はまだ、それは道ばたにひっそりと咲く花のように、小さく目立たない存在かも知れません。けれども、恩寵の種はこの世界のあちこちに蒔かれ、芽生え、成長しはじめています。そして、ついには地の表が色とりどりの花で埋め尽くされる日が来る――聖書が教える希望とは、そのようなものではないかと思うのです。

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