悲しみの人

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。
われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

(イザヤ53:3-5)

桜の花が咲き乱れる季節がやってきましたが、いつもと変わらないのどかな春の風景とは裏腹に、世界は不穏な空気に包まれています。連日メディアは新型コロナウイルスの話題で溢れています。今も感染者は急増を続けており、ついに日本でも緊急事態宣言が発令される事態になってしまいました。

キリスト教会もこの変化に無縁ではありません。教会も会堂に集まっての礼拝が中止され、オンラインで礼拝を行うところも増えてきました。私が所属している教会も、まず主日礼拝以外のすべての活動を休止し、先週の日曜日からはインターネットを通して各家庭で礼拝を捧げる形になりました。今教えている神学校も、3月の卒業式は規模を縮小して開催、入学式は中止となり、新年度の授業開始も4月末に延期して、授業はオンラインで行う準備を進めています。

私たちの生活は、一変してしまいました。

日本だけではありません。世界中の国々がこのウイルスの感染拡大によって大混乱に陥っています。たとえば戦争や台風のような自然災害の場合にも、局地的に大きな被害をもたらすことはあります。疫病の流行は昔もありましたが、それも特定の地域に限定されることが多かったです。けれども、今回の新型コロナウイルスはアジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリアとすべての地域に拡がっています。世界中が同時に同じ脅威に直面するのは極めて異例の事態と言えます。

そのような中で私たちは今週、イエス・キリストの十字架を覚える受難週を迎えました。この混沌とした世界の中で、イエスの十字架は何を語りかけているのか、自分なりに思いを巡らしてみました。

イエスが十字架につけられたのは金曜日のことでした。その前日の木曜日に主は弟子たちと最後の晩餐を行い、それが終わるとイエスは弟子たちを連れてゲツセマネという園に行って祈られました。

それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
(マタイ26:36-38)

ここで私たちは、とても意外なイエスの姿を目にします。神の御子であるイエスが十字架を前にして悲しみのあまり身悶えし、死ぬほど悲しいと弟子たちに言われたのです。

私たちは人となってこられたイエス・キリストを何か現実離れしたスーパーマンのように考えてしまうことがあります。けれども、イエスは100%神でありながら、100%生身の人間としてこの地上に生まれ、歩んでくださいました。福音書の中にはイエスが疲れを覚えて眠られたり、空腹や喉の渇きを覚えたりしたことも書かれています。またイエスは私たちと同じように喜怒哀楽を表現されました。彼は親しい友であったラザロが死んだ時に涙を流し、エルサレムを見てその滅びを思いながら涙したことも書かれています。そして今、ゲツセマネで十字架を前にして死ぬほどの悲しみにとらわれているのです。

Image via Wikimedia Commons

ここで具体的にイエスが何について悲しまれたのか、マタイははっきりとは書いていません。間近に迫った十字架の死に関わっていることは間違いありませんが、ただご自分が死ななければならない運命を嘆いていたのではないと思います。そうではなく、十字架の上でご自分が担うことになる、すべての人の罪のゆえに悲しまれたのではないかと思います。さらに言えば、イエスはゲツセマネで、罪のゆえに神から断絶されてしまった人類の悲しみをすべて、ともに味わってくださったのです。

冒頭に掲げたイザヤ書53章の有名な「苦難のしもべ」についての箇所は、受難のキリストと重ねて読まれてきました。その中でこのしもべは「悲しみの人」であったと書かれています(3節)。この部分を「痛みの人」と訳しているものもありますが、いずれにせよイエスは私たちの痛みや悲しみを担ってくださる方といえます。

全能の神ならば、自らは何の痛みも覚えることなく、私たちの悲しみや痛みを取り去ってくださることもできたでしょう。でも神はそのようにはなさらず、自ら人となってこの地上に来られ、私たちの悲しみを担い、とことんそれを味わってくださったお方です。聖書が証しするまことの神は、遠く離れた天から私たちを無関心に見下ろしている神ではなく、私たちと同じレベルまで降りてきてくださって、私たちの痛みや悲しみを共に経験してくださる神なのです。

悲しみのなかにそのパンを食したることなき人は、
真夜中を泣きつつ過ごし、
早く朝になれと待ちわびたることなき人は、
ああ汝天界の神々よ、この人はいまだ汝を知らざるなり。

これはドイツの文豪ゲーテのことばだそうですが、これを鈴木大拙が引用して訳したものです。私自身は若松英輔氏がその著作『悲しみの秘儀』の中でこの訳文を引用しておられるのに出会いました。このような引用の連鎖を通して人から人へと受け継がれてきたことばは、強靭な生命力(感染力?)を持っています。悲しみとは、もしかしたら人間存在の根底にある感情かもしれません。だとすれば、ある意味ですべての人は「悲しみの人」と言うことができるでしょう。イエスが「悲しみの人」であったということは、とりもなおさずイエスはすべての人と連帯してくださったということを意味しているのではないでしょうか。

今世界は大きな痛みと悲しみの中にあります。多くの人々がウイルスに感染して苦しみ、亡くなった方も多くあります。その周りには愛する者を失って悲しむ人々がいますし、直接病の影響を受けていなくても、社会の変動の中で生活に困窮し、大きな不安を抱えて生きている人々もいます。そのような状況の中で迎えた受難週、私たちはもう一度、私たちが信じ仕えている神がどのような神であるかを思い起こす必要があります。このパンデミックの世界にあって、私たちの神は苦しむ人々とともにいて、ともに悲しみ嘆いてくださるお方なのです。

そして、このような神を信じるキリスト者も同じように行動することが求められているのではないかと思います。N・T・ライトは先月末に『タイム』誌に寄せた文章の中で、新型コロナウイルスの危機にあたって、キリスト教会のなすべきことは、なぜこのようなことが起こったのかを説明することではなく、嘆くことだと書きました。

もちろん、嘆くだけで終わってよいわけではありません。ライトもそのエッセイの結論部分で、嘆きから新しい可能性が生まれると述べています。感染の拡大防止に努め、そして苦しむ人々を助けるために、教会ができる限りのことをしていく必要があります。けれどもそれは安全な場所から遠隔操作で働きかけるようなものではなく、世の人々と同じ目線に立ってその悲しみを共有し、ともに嘆くことから始める必要があるのだと彼は言いたいのでしょう。

今世界では新型コロナウイルスが急速に拡大していますが、ある意味でウイルス以上に人々を蝕んでいるのは、人の心に巣食う罪という病です。今回の感染拡大とともに、フェイクニュース、必要物資の買い占めや転売、さらには人種差別といったさまざまな問題が噴出してきました。人と人とのつながりが(物理的な意味だけでなく)失われ、愛が冷えていくのを感じます。これは、ウイルスによって、もともと私たちの中にあった悪がむき出しにされたとも言えるでしょう。

そのような悪は恐れから生まれるのではないかと思います。人は自分が理解できないもの、コントロールできないものに対して恐れを抱き、それに反応して行動することによって、他人や自分を傷つけてしまいます。身近な例で言えば、スーパーに行って商品棚が空であるのを目にすると、反射的に不安をいだき、別の店でその商品を見つけた時に必要以上に買い込んでしまいたい衝動に駆られることがあります。でもそのような利己的な行動によって、本当に必要な人のもとに物資が行き届かなくなってしまうのです。

デマに踊らされた人々が買い占めに走る現象からも分かるように、恐れはウイルスのように人から人へと急速に伝染していきます。けれども聖書は、「完全な愛は恐れをとり除く」と語ります(1ヨハネ4:18)。恐れの蔓延に立ち向かうために必要なのは、愛です。

イエスは最も大切ないましめは神を愛し、隣人を愛することだと言われました(マタイ22:37-40ほか)。神を愛し、神の愛の中に生かされることによって、私たちは何があっても神から切り離されることはない、という平安と希望を持つことができます。そして、この危機的状況の中で、神が望まれることは何かを考え、勇気を持って行うことができるようになります。また、自分を愛するように隣人を愛することは、結果的に落ち着いて理性的に行動し、社会の秩序を保つことにもなると思います。

そして、このような愛は、共感する力、他者の痛みを自分のことのように感じるイマジネーションから生まれます。イエスが十字架についてくださったのは、神の子としての義務感からでも、高邁な宗教的理念からでもありませんでした。イエスは罪のゆえに神から断絶されて苦しむ人類の痛みや悲しみをご自分のものとして引き受け、味わってくださったのです。それこそが、主が十字架にかかってくださった理由でした。

そのような愛が無駄になることはありません。受難の金曜日の後には復活の日曜日がやってきます。私たちの神は悲しみと絶望のどん底にある私たちとともにいてくださる神ですが、それで終わりではありません。ついには私たちの目の涙を拭い、悲しみのない新しい世界へと導いてくださるのです。

その意味で、悲しみの泥沼はその中に希望の種を宿していると言えます。その沼に勇気をもって足を踏み入れた者だけが、その種が芽を出し花を咲かせるさまを見ることができるのでしょう。上に引いた『悲しみの秘儀』の中で、若松氏は次のようにも書いておられます:

人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。単に、悲しみを忌むものとしてしか見ない者は、それを背負って歩く者に勇者の魂が宿っていることにも気がつくまい。

けれども、そのような素晴らしい未来は一足飛びにはやってきません。いまだに悪と苦しみがあふれる世界の中で、私たちは約束された未来に向かって一歩一歩進んでいく必要があります。時には目の前の現実に圧倒されて、心が折れそうになるかもしれません。けれども、私たちの神は真実なお方であって、必ず最終的に救いをもたらしてくださるお方です。イエスの十字架は、その約束のしるしです。

この受難週、あらためて十字架の主を覚え、感謝とともに過ごしていきたいと思います。

 

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Emmanuel

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