注解書によると「賽銭箱とは、神殿の庭の壁を背にして置かれた13個のラッパ型の容器だという。施しのためのもので、今日風に言えば「災害救援募金箱」のようなものだったのだろう。そして、たまたまその「向かい側に座って(41)いたイエスには、群集がそれに金を入れる様子が見えた。「大勢の金持ちがたくさん入れているところは、特別によく見えたであろう。
この場合の「金持ちとは、一般的な意味で「豊かな人々というよりは、38節の「律法学者を指していると思われる。彼らは、主イエスが厳しく批判されたように、「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする(38~40)ような人たちで、自己顕示欲が強い。それに当時のユダヤでは、多額の献金をした人がいると「ラッパを吹き鳴らす(マタイ6,2)こともあったというから、律法学者たちが「これ見よがしに金を入れたとしても不思議ではない。
「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた(42)。この女性は、貧苦のために、ごく僅かのお金しか入れることができなかったのだろう。「レプトンとはローマ通貨の最小単位で、「デナリオンの128分の1に当たる。「1デナリオンが労働者の1日分の賃金に相当したというから、「レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスは現代の価値に換算すると、多くて何十円という程度の小額である。恐らく、彼女は人目を憚るようにしてそのお金を入れたのではなかったか。それがどうしてイエスの目にとまったのか?
この疑問はしばらく措き、ここで私自身の体験を紹介したい。
1977年の11月に、当時ドイツ教会の世界宣教部で仕事をしていた私は、南アフリカ共和国に赴いた。人種差別(アパルトヘイト)が厳しかった頃だが、差別されている側の「モラビア兄弟団教会の招きで2週間滞在し、各地を訪ねたのである。
ある日曜日、ティナナという小さな村の教会で、感謝祭礼拝の説教をすることになった。牧師が私を紹介して、「この人は私たちのところに来てくれた最初の日本人です」と言い、それから、He is black! と付け加えた。私は嬉しくて緊張もほぐれ、心をこめて説教をしたのだが、その直後、歌と踊りが始まった。
会堂の真ん中に木のテーブルを据え、その上に粗末なアルマイトの洗面器を置いて、会衆は周りをぐるぐる踊りながら献金を入れて行くのである。それも一度に全部入れるのではない。何度でも小出しにする。嬉しそうな身振りや手振り、それに歌声と手拍子。私も黙っていられなくなって踊りの輪に加わり、10ランド(日本円で2000円ぐらい)を入れた。その途端に会計係の人が駆け寄ってその紙幣をつまみ上げ、「日本から10ランドだよッ」と叫んだものだ。その恥ずかしいことといったら!
この踊りは、昼食も食べずに延々と午後2時過ぎまで続き、献金が全部で92ランド(約2万円)に達したところで終わったが、最後の手拍子が終わると牧師が何か言った。またもや歌と踊りが始まった。「一寸しつこいなと思って見ていた。だが、実はこの最終ラウンドは「日本の教会のためのものだったのである。小銭ばかり入ったずしりと重い紙袋を渡されたとき、私は感動して涙が出た。
この人たちは大多数が白人の農場で働き、当時、月に僅か2ランド(約430円)とミルクを貰っていた。道路工事の労働者の日給は20セント(約43円)。こんなに少ない現金収入の中から、彼らは一年間、少しづつ献金を積み立てて、この「感謝祭」の礼拝に持って来るのである。
この人たちの姿が、私には「レプトン銅貨二枚を入れた貧しいやもめに重なって見える。すると、10ランドを入れた私は、あの金持ちだろうか?
だが、ここでさっきの問題に戻らなければならない。あのやもめは、誰にも見えないように、こっそりと零細な金額を入れたはずである。それが、どうしてイエスには見えたのだろうか?
実は、ここに今日の話の中心がある、と私は考える。実際のところ、彼女がいくら入れたか、主イエスには見えなかったであろう。だが、彼は、彼女の切ない心情をしっかり汲み上げて、それを温かい目で見守っておられたのだ!「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれたからである(43~44)と言われたのは、そのことの証しに他ならない。そういう方が私たちのそばにいるということ。このことを、福音書は伝えようとしているのである。
主イエスは、社会であまり意味がないと見られている小さな存在や、無視されている弱者に対して、常に温かい目を注いだ方であった。野の百合、空の鳥。大人たちにうるさがられる子供たち。病気で寝ている人々。徴税人。貧苦のために律法に定められたこともできず、そのために「罪人というレッテルを貼られた人々。そして、貧しいやもめ。
主イエスは、自分の業績を吹聴する人々の声高な弁舌には耳を貸さない。心の中で「言葉にもならない呻きでしかないような祈り(ルター)を呟く人々の、声なき声に耳を傾けて下さる。彼は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ4,15)方なのだから。詩編25,15によって「目は」と名づけられたこの受難節第3主日、私たちはいつもこの主に目を注ぐ者でありたい。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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