「神が涙をぬぐわれる」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

小河陽氏の翻訳による『ヨハネ黙示録』(岩波書店)には、ほとんどすべての章に図像が添えられている。多くは10世紀から17世紀頃までの写本に載っている絵だが、そのほかに祭壇画もあるし、タピストリーもある。全部で80数点に及ぶ。これを見ると、古代や中世のヨーロッパの人々が、黙示録によって大いに想像力を刺激されたことが分かる。それ程、黙示録には色彩豊かな絵画的世界が繰り広げられているのである。

しかし同時に、黙示録はきわめて音楽的でもある。先週、7章は小羊が第七の封印を開く前のいわば「間奏曲」のような所だと言ったが、「間奏曲」(インテルメッツオ)といっても、気分転換のための軽いものではない。10節や12節は堂々たる大合唱だ。ヘンデルが「メサイア」を書く時、黙示録から刺激を受けて、「ハレルヤ」を始め多くの合唱曲を作曲したこともよく理解できる。

今日の箇所の初めにも、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立った」(9)とある。これを読んだ私は、大編成の混声合唱団を思い浮かべた。あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった沢山の人々が、白いユニフォームを着て、手に手になつめやしの枝を持ってステージに上り、玉座の前、つまり指揮者の前に立っているところだ。先日亡くなった指揮者の山本直純さんは、千人の合唱団を指揮して第九交響曲を演奏したことがあるそうだが、ここでは14万4千人である。だが、音楽の比喩はここで終わりにする。

この大群衆は、14節で長老の一人が「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」人々だと説明しているように、殉教者たちである。

そこで今日は、殉教者についてさらに考えてみたい。

一般的には、「殉教者」はキリスト教徒に限らない。旧約聖書にも、エレミヤのように真実を語ったために迫害され・殺されたユダヤ人の預言者たちが出てくるし、仏教にも、権力者によって殉教に追い込まれた僧たちがいた。特に注目したいのは、イスラームの場合である。最近では、「自爆テロ」を決行する人は殉教者と称えられる。殉教とは、「大義に殉じる」ことだという理解が、そこにはある。

だが、キリスト教における「殉教者」は、単に「大義に殉じた人」ではない。「その衣を小羊(=イエス)の血で洗って白くした」(14)と言われているように、殉教者はイエスの死を通して純化されている。それはどういうことか?

イエスはモーセ律法の解釈を巡って当時のユダヤ教指導部と対立したために宗教裁判にかけられ、十字架刑に処せられたが、これは、ただ「自らの信念に殉じた」とか、「大義に殉じた」というだけのことではない。彼は、モーセ律法を完成し・徹底すること (マタイ5,17以下)、つまり、愛を徹底することを目指していたのである。

例えば、「殺すな」という律法は、ただ「殺人」を犯さなければいいというものではない。腹を立てたり罵ったり憎んだりすることさえもしない、ということである。「隣人を愛し、敵を憎む」ことを当然と考えるのではなく、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」(マタイ5,44)という所まで、愛を徹底しなければならない。彼はこのように教え、自分でも実践した。正にそのことが当時の宗教指導者たちの不興を買い、殺されたのである。

しかし、イエス自身は、この死には「すべての人の罪を代わって負う」という意味があると自覚していた。だから彼は、苦しみの杯を最後の一滴まで飲み干し、この理不尽な死を黙って味わい尽くし、自分をこのような目に遭わせた人々のために赦しを祈りながら息絶えた。

このイエスに目を留める時、我々にとって殉教は単に民族の「大義に殉じる」ことではなくなる。それは「敵をも愛するために死ぬ」ことだ。「その衣を小羊の血で洗って白くする」というのは、そのような意味であろう。コルベ神父・ボンヘッファー牧師・キング牧師・ロメロ大司教といった人たちも、主イエスに倣って愛することを徹底しようとし、そのために命を捧げた人たちである。憎しみのために命を捧げても、それを殉教とは呼ばない。

使徒言行録は、殉教の代表的な例としてステファノを挙げている。彼は不当な憎しみを買い、神を冒涜したかどで最高法院に訴えられる。法廷で聖書に基づいて堂々たる弁論を展開するが、結局石打ちの刑に処せられる。しかし、「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」(使徒言行録 7,59-60)。

これらの殉教者たちは、この世では居場所がなかった。しかし、天の神の前では、つまり「永遠の相のもとでは」、その正当性を認められる。我々はこのことを信じたい。

最後の言葉は、我々に慰め深く真実を告げる。

「彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(15~17)。


 
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