復活の信仰

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・4・4

復活の信仰

エゼキエル書 37,1-14;  第一コリント 15,1-11

イエスの復活について述べた個所は、新約聖書の中に多くある。最古の福音書マルコは、「空虚な墓」の物語を伝えているし、他の福音書にはいずれもドラマチックな話がある。特にルカの「エマオ途上のキリスト」と、ヨハネの一連の物語が良く知られている。

今日読んだ個所のうち、特に3-5節は、それらの資料の中で最も古いものである。コリントの信徒への手紙自体は54年頃書かれたと言われているが、その時パウロは既に、教会の中に広く受け入れられていたこの伝承を知っていた。だから彼は「受けた」(3a)、と言ったのである。かなり古い伝承と考えていい。

この簡潔な言いまわしは、おそらく覚えやすいように、韻を踏んだ形で伝えられていた。この中で言われていることは三つある。すなわち、「キリストが、(旧約)聖書に書いてある通りわたしたちの罪のために、、また、聖書に書いてある通り」。そして、復活者は「現れた」と言われる。

この「現れた」という言葉(ギリシャ語でオフセー) が「復活」を理解するための鍵であることは確かであろう。一体、「現れた」とはどういうことなのか。

 

「オフセー」は、文法的に言うと、「見る」という動詞の不定過去・受動態だから、弟子たちによって「見られた」とも訳せるが、この場合、形は受動態でも意味は能動態だという。すると、キリストは「自らを見せた」、あるいは「自らを示した」という意味になる。その意味で「現れた」と訳したのであろう。だが、「現れた」というのは、もう少し正確に言うと、どういうことなのか?

十字架上で死んだイエスが、死後、弟子たちの前に「現れた」というのは、言ってみれば弟子たちの主観的な幻想であろう、という説がある。あるいは、異常な精神状況の中で起こった一種の集団ヒステリーだ、という説明も跡を絶たない。

だが、そういうことではないであろう。マルクスセンという神学者は、この問題をめぐって詳細に論じた後で、「現れた」ということの意味は、「イエスの事柄は継続される」ということであると結論づけた。私はこの結論に大筋で同意したい。

 

「イエスの事柄は継続される」!

イエスは確かに十字架上で死んだ。だが、そのことによって、彼が生涯を賭けて取り組んでいた事柄がご破算になってしまったわけではない。彼の事柄は、十字架上の死によっても終わらない。「死んだイエスが弟子たちに現れた」ということは、彼が命を懸けた事柄が弟子たちによって継続されるということを意味する。

 

では、彼が命を懸けた事柄とは何か?

イエスは、その公生涯の初めに、「神の国が近づいている」と告知した。

 この世では悪が支配しているように見えるが、それはやがて必ず終わる。独裁者の恣意的な支配や理不尽な戦争によってもたらされる無告の民の、いわれなき苦しみや悲しみ。どうしても納得が行かない、さまざまの不幸。だが、そのような悪の支配はいつまでも続くものではない。それらは終わる。必ず神の力によって終わる。そして神の国、つまり真実な神の支配が来る。神の愛が究極的な力を発揮するようになる。富める者・権力を握る者だけが横暴な力によって良い目を見るということがなくなり、いと小さき者らへの神の慈しみの目が注がれる。→ マタイ5,3-11!

そのように、神の国が、真実な神の支配が来る。

これが、イエスの事柄であった。

 これは、彼の死をもって終わったりはしない。それは継続される。弟子たちによって、それゆえ、私たちによって継続されるのである。「現れた」というのはそういう意味であり、それが「イエスの復活」である。

 

椎名麟三の『私の聖書物語』を先週読み直した。

彼はその中で、「復活」について書いている。ルカ福音書の、死んだイエスが現れて弟子たちに自分の傷痕を見せたり、魚を食べたりした記事を読んでいた時、「…ドキンとした。それと同時に強いショックを受け、自分の足元がグラグラ揺れると共に、自分の信じていたこの世のあらゆる絶対性が、餌をもらったケモノのように急にやさしく見え始めた」という。

「この世のあらゆる絶対性」と彼は言うが、その代表は「死」である。「イエスは、十字架上で死んだのである以上、死体であるというより仕方がない」。この死は絶対である。ところが、その「確実に死んでいるイエスが、…同時に、確実に生きている」。つまり、復活のイエスにおいては、「生と死が、互いに犯すことなく同居しながら、互いに哀れにも唯一絶対の本当のものとなることができないでいる」。

椎名麟三は、正にそこに「人間の真の自由をまざまざと見た」と言うのだ。これを彼は、「神のユーモア」とも言っている。

この椎名さんの「回心」を追体験することは、容易ではない。しかし、イエスの復活を信じる時に「この世のあらゆる絶対性」が相対化される、というのは真実である。それを高らかに宣言した言葉が、ローマの信徒への手紙 8,31-39 であろう。

 

 

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