見えない戦争 揺れる平和この国は、本当に平和なのか ■ルワンダで平和について考える

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

佐々木和之
日本バプテスト連盟 ルワンダ派遣国際ミッションボランティア

半年くらい前のことになるが、講師を務めるプロテスタント社会科学大学の平和学概論の授業で、「平和」ということばから何をイメージするのか、ルワンダの学生たちに聞いてみた。ルワンダ語には「平和」を意味する「アマホロ」ということばがある。この「アマホロ」について議論してもらったのだ。すると、それはただ「戦争がない」という意味での平和にとどまらず、「飢餓や貧困など、苦しみをもたらす状況からの解放」「心の平安」「家族や隣人との良好な関係」を含む豊かな平和の概念であることが分かった。

構造的暴力と平和

「平和学の父」と呼ばれるヨハン・ガルトゥングは、今から四十年以上前、平和の反対概念に「戦争」でなく「暴力」を対置させる平和論を提唱した。平和とは「戦争の不在」と見なす考え方は、日本を含む多くの国々で以前も今も根強い。
しかしガルトゥングは、戦争という目に見える「直接的暴力」がない状態は〝消極的な平和”に過ぎず、貧困や飢餓・政治的抑圧・差別など、社会経済構造に組み込まれ、基本的な人間性実現の機会を奪う「構造的暴力」の根絶を追求してこそ〝積極的な平和”が実現すると主張したのだ。
ここ最近、私は紛争解決論という授業の中で、学生たちに「この国は本当に平和なのか」と問いかけている。
八十万もの犠牲者の血で大地が染められた大虐殺から十八年、ルワンダは「奇跡の復興」を遂げ、年に約一〇パーセントの高度経済成長を続けている。今ではアフリカ一、安全かつ清潔な都市と言われる首都キガリには、ここ数年でガラス張りの高層ビルがずいぶん増えた。そして何よりも、ルワンダ国内にもはや戦争はない。(隣国コンゴ民主共和国で続く武力紛争への介入が取りざたされているのだが……)その意味では、この国はたしかに「平和」になった。しかしその一方で、多くの国民が経済成長から取り残され、いまだに極度の貧困に喘いでいる。政府のデータによれば、食糧自給率一〇〇パーセントを達成したと言われるこの国で、栄養不良に苦しむ子どもたちは今も全体の三〇パーセントを占める。一握りのエリート層と大多数の一般庶民の経済格差は、拡大の一途をたどっているのだ。
強大な軍事力・警察力を持つ現政権は、力づくで野党勢力を封じ込めることにより政治的な安定を維持してきた。しかし将来、軍人出身である現大統領の強力なリーダーシップが終焉を迎えるとき、再び政治的な危機に見舞われ、紛争が再燃しないとも限らない。貧困・格差拡大・政治的抑圧などとして現れる構造的暴力を取り除き、〝積極的な平和”の実現のために力を尽くしていかない限り、〝消極的な平和”を維持することも困難なのである。

日本は平和なのか?

「日本人は平和ボケしている」とよく言われる。「平和ボケ」とは、戦争から遠ざかっている日本人が、戦争や安全保障に関して無関心だったり、危機感が欠如していることを意味することばだが、その前提となっているのは、「日本は平和」という認識だ。しかし、日本は本当に平和なのだろうか。
日本は敗戦後、六十七年間ずっと、戦争をしていないことになっている。だが、アメリカが主導する戦争にこれまで何度も、そして今も加担していることを忘れてはならない。そして米軍基地の存在により、沖縄の人々のいのちは脅かし続けられている。そのことに思いを至らせれば、〝消極的な平和”すら実現していないと言えるのではないだろうか。〝積極的な平和”についてはどうだろうか。日本は、過去十四年連続で年間三万人超の自死者を出している国である。路上で凍死するホームレスの方々や自宅で孤独死をする方々も後を絶たない。「格差社会」や「自己責任社会」といったおぞましいことばが、悲しみや怒りを伴わずにメディアによって垂れ流される中、「派遣切り」にあった若者たちが誰にも「助けて」と言えずにネットカフェや路上で寝泊まりする現実がある。そして、社会の閉塞感が深まる中、〝普通の人々”の攻撃的な衝動は、ますます「自分たちとは異質な」在日韓国・朝鮮人、在留外国人、セクシャルマイノリティーなどの方々に向けられ、差別が肯定されている。日本においても、深刻な構造的暴力がこのような状況を生み出し、人と人との関係性を切り裂いているのである。

ピースメーカーになる

ルワンダの学生たちと平和について語り合ったとき、とても印象深いことばがあった。それは、「平和はみんなのもの」つまり、自分の状態が良くても、苦しんでいる人たちが周りにいるなら、その状況は平和とは言えないということだ。
もし私たちが自分だけの「平和」に満足していたとしても、そんなものは本当の平和ではないのだ。
主イエスは、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれる」(マタイ5・9)、と言われた。このことばは、私たち皆への主イエスの呼びかけ、招きのことばなのだと思う。平和は、特別な仕事をする特別な人たちによってつくられるのではない。主イエスは今、日本でもルワンダでも、ご自分とともに働く「ピースメーカー」を求めておられる。真の平和の実現のために。

見えない戦争 揺れる平和この国は、本当に平和なのか ■隣る人

 

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