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前回の記事ではヨハネの福音書4章に出てくるサマリアの女性を取り上げました。
イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」(ヨハネの福音書4章16-18節)
「夫がいない」というのは、彼女にとって大きな痛みでした。その痛みの事実を打ち明けたときのイエス・キリストの言葉は、なんて温かいんだろうと思います。「あなたにとって、その悩みを打ち明けるのは、勇気のいることだっただろう。痛みを伴うことだっただろう。でも、よく打ち明けてくれたね。ありがとう」私にはそんな風に聞こえるのです。
行為の是非を問うのではなく、誰かの痛みの声を聴くこと、そしてその痛みをともに痛んでいくことが、キリスト教倫理の出発点である。この連載ではそういうことを語ってきました。けれども、痛みを打ち明けるというのは大変なことです。自分の中にある傷と向き合い、ひとつひとう言語化していかなければできません。そして、それを開示するというのは、本当に信頼できる相手にしかできないこと、あるいは、本当に信頼できる相手にすらできないようなことです。だから、私たちは軽々しく相手に自己開示を求めてはいけないのです。そしてもしも誰かが痛みの声を打ち明けてくれたなら、その勇気をきちんと受け止めなければならないと思うのです。
「わたしはだれが死ぬのも喜ばない―神である主のことば―。だから立ち返って、生きよ。」(エゼキエル書18章32節)
神に背くイスラエルに悔い改めを迫る叫び。それは「生きよ」という叫びでした。
この世界、神さまの創造された豊かないのちに満ちる状態からずれてしまっています。このずれを、日本語の聖書は「罪」と訳しています。ずれは、いのちを傷つけます。そして、その傷は「痛み」として表出してきます。だから、私たちが誰かの痛みに目を留めるとき、その背後にある深刻な罪/ずれに気づくことができます。そしてその気づきは、私たちを行動に向かわせます。
皮膚にとげが刺さって痛いと思えば、とげがささったままにしておくはずはないわけで、かならずとげを抜こうという変革の情熱が生じてくるはずです。つまり矛盾とか痛みとかいうものは現状肯定をゆるさないのです。(北森嘉蔵『聖書と西洋精神史』207頁)
いのちの回復を目指す大きな矢印の途上で、私たちは、この世界にある痛みに目を留め、痛みの声を聴き、ともに痛み、その痛みに突き動かされていかなければならない。それが、キリスト教倫理という営みです。
性的マイノリティと呼ばれている人々の痛みの声を聴くことで、この人々が晒されている「罪/ずれ」の現実に気づくことができます。けれども、冒頭で述べたように、痛みを開示するというのは大変なことです。安心できる関係性を築けていない状態で語ることはできませんし、痛みの開示を強要することは非常に暴力的なことです。
また、「性的マイノリティの痛み」とひとくくりにできる痛みがあるわけでもありません。「性的マイノリティ」と一言で言っても、それぞれのセクシュアリティ、経験、環境は異なっているからです。レズビアンの痛みとトランスジェンダーの痛みは違いますし、レズビアンのAさんとレズビアンのBさんの痛みは違います。
また、もう一つの難しさは、他者の痛みを代弁してしまうことの暴力性に関わるものです。私自身のセクシュアリティはここでは非公開とさせていただきますが、たとえば私はゲイではありません。そんな私がゲイの方の痛みを代弁してしまうことは、ゲイの方の声を奪うことに繋がってしまいます。
そういった限界の中で、私にできる範囲で「性的マイノリティの痛み」の例を挙げていこうと思います。
①肉にまつわる痛み
セクシュアリティは生身のいのちである肉体と分かちがたい痛みを持つものです。性別違和を抱える人は、自身の経験する性と肉体の性の違和に苦しみます。常についてまわる肉体というものに違和を覚えるということの痛みが想像できるでしょうか。特別な場面だけではありません。日常的な着替えや入浴に困難を覚えることがあります。二次性徴を受け入れることができずに変化していく部位を刃物で傷つけたといった壮絶な経験をしている人もいます。
性指向に関係するマイノリティは、直接肉体に関わる痛みを経験するわけではありませんが、身体的に「男/女」である人が恋愛をするという社会の作った基準に苦しめられることになります。
②社会から疎外される痛み
いのちリスペクト。ホワイトリボンキャンペーン「LGBTの学校生活実態調査(2013)」によると、LGBT当事者の7割がいじめを経験しています。直接的ないじめでなくとも、社会には性的マイノリティの尊厳を傷つけるような言説に満ちています。それは、時に親しい関係の人からの何気ないジョークというかたちで放たれることもあります。
また、「男性はこうあるべき/女性はこうあるべき」というジェンダー規範の強い社会では、あらゆる社会行動が制限されます。進学や就労に困難を覚えたり、病院に行くことができず病気の発見が遅れたりと例を挙げればきりがありません。また、異性カップルには認められている様々な権利が同性カップルには認められていないという現実もあります。
こうして性的マイノリティと呼ばれる人々は、社会から疎外される痛みを経験することになります。
③教会から疎外される痛み
そのような状況の中で、教会がこれらの人々を受け止める場所になっているかというと、現実は逆なのではないでしょうか。「同性愛は罪」という言説の下、教会のメンバーになることや教会教職になることが制限されることがあります。「愛しているから罪を指摘する」という一見やわらかい表現で、存在を否定されることもあります。そのような積極的な排除でなくても、教会という場所はジェンダー規範の厳しい場所です。「兄姉」という敬称や男女別の役割分担が性別違和を抱える人を排除することがあります。また、「クリスチャンのシスジェンダー男女が恋愛し、結婚までは性関係を持たず結婚後は性行為を楽しみ子を産み、信仰継承する」という一つのロールモデルが強調されることがあります。そして、そのようなロールモデルが唯一の正解とされるとき、そこに当てはまらない人には居場所がありません。
けれども、「居場所がない」ということさえ気づかれることはあまりありません。それは、教会という場でこういった人々の存在が見えなくされているからです。「クリスチャン新聞」2022年5月22日号「教会とLGBTQ①」でもレズビアンのクリスチャン女性が礼拝に出席しようとした際に、牧師から「うちには当事者の方はいらっしゃらないので」と返答されたという記事が掲載されています。これらの人々は「いない」ことにされているのです。教会に足を運ぶことができない人もいれば、断罪を恐れて本当の自分を見せることができない人もいます。
どちらにせよ、これらの人々が「いない」ことになっている教会の中では、これらの人々の尊厳を傷つける言説は、知らず知らずのうちに強固なものになっていきます。こうして、神の民の交わりから、性的マイノリティと呼ばれる人々は疎外されていくのです。
④いのちからの疎外
性的マイノリティには身近なロールモデルがないことが多くあります。自分が他の子どもと違っていることに気づいても、その状態に何と名をつけていいのかわからない、ということがあります。「普通ではない」というレッテルを自分自身に貼り、「普通」でない自分を責めたり「普通」に馴染もうと無理をしたり、そういう中で、自分自身の人生を生きることができずに苦しみます。成長の中で、「普通ではない」自分のセクシュアリティが差別や嘲笑の対象であることに気づくことがあります。
『自殺対策白書』2014年版では「セクシュアルマイノリティの自殺念慮の高さ」に言及されていますが、ゲイ・バイセクシュアル男性の65.9%が自死を考えたことがあり、14%が実際に自殺未遂を経験しているという調査、性同一性障害の診断を受けた人の7割近くが自死を考えたことがあるという調査があります。
今この文章を読んでいる方にお願いしたいことがあります。性的マイノリティの問題はいのちの問題であるということを理解していただきたいのです。マジョリティが安全な場所で聖書を開いて議論している今も、瀕死の状態で助けを求めている、いえ、助けを求めることさえできずに倒れている人がいるということです。
カトリック神父である本田哲郎は「罪を犯す」ということを、「道を踏みはずしている」と理解しました。
一方、イエスにとっては、力をもつ者が立場の弱い者を抑圧したり、差別することは、ゆるせないことであり、また、不当に抑圧され、差別されている者が、文句もいわずあきらめてひたすら耐えていることは、がまんのならないことでした。どちらも神の生きざまとは相容れないことだからです。どちらもあゆむべき「道をふみはずしている」のです。(本田哲郎『小さくされた人々のための福音-四福音書および使徒言行録』25頁)
性的マイノリティの人々は、神にいのち与えられた存在です。それにも関わらず、この人々はいのちから疎外されています。そして社会や教会は、これらの人々をいのちから疎外します。この状態は「道を踏みはずしている」状態です。私たちは、この人々のいのちを脅かしているという私たちの罪/ずれと向き合い、痛み、悔い改めなければならないと思うのです。
さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目が見えない人に出会った。弟子たちはイエスにたずねた。「導師(ラビ)、この人が、目が見えないまま生まれたのは、だれが道をはずれたからですか、本人ですか、両親ですか」。そこでイエスは言った。「この人が道をはずれたわけでもなく、両親が道をはずれたわけでもない。神の生きざまがこの人によって現れるためである」。(ヨハネによる福音書9章1-3節、本田哲郎訳。『小さくされた人々のための福音-四福音書および使徒言行録』521頁参照)
イエス・キリストの言葉は呪いから解放する声でした。彼が繰り返し聞いてきたであろう「お前は罪びとだ」「神の祝福の外にある存在だ」そんな呪いの声を解く声。そして、誰かを神の祝福から疎外する呪いにかかっていた弟子たちを解放する声です。
私たちの共同体は、性的マイノリティと呼ばれる人々に呪いをかけてきました。「お前は罪びとだ」「神の祝福の外にある存在だ」と。けれども教会には神の言葉の宣教がゆだねられています。教会の使命は、この呪いを解くことではないでしょうか。痛みに気づき、目の前の人と共同体とを痛みからいのちへと向かわせることではないでしょうか。
この記事では性的マイノリティと呼ばれる人々の痛みについて、ごく基本的なところを取り上げましたが、もっと詳しく知りたいという方のために二冊の本と一つのサイトをおすすめしたいと思います。
■LGBTとキリスト教 20人のストーリー | 平良 愛香 |本 | 通販 | Amazon
私の大切な二人の友人たちも20人の中に含まれています。性的マイノリティの人々が、その人の言葉で痛みを含むご自分の経験を物語ってくれています。実際に出会い、物語を聞くことができなくても、この本を読むことで、これらの人々の痛みや闘い、信仰の歩みを聴かせていただくことができます。
■先生と親のための LGBTガイド: もしあなたがカミングアウトされたなら | まめた, 遠藤 |本 | 通販 | Amazon
FtMトランスジェンダーの著者が、これらの人々が直面している状況についてわかりやすく解説してくれています。性的マイノリティに関する知識を得るための入門書としてもっともおすすめできる本です。
■証し(パーソナル・ストーリー) | 約束の虹ミニストリー (amebaownd.com)
「⓪はじめに」でも紹介しましたが、大切な友人たちがスタッフとして奉仕している団体です。様々なセクシュアリティの人たちの証があります。名前や所属を明らかにすることのできない立場の人たちの声を聴くことができます。書籍より気軽にアクセスできると思うので、ぜひ。
(続く)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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