苦しみの意味

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・3・28

苦しみの意味

イザヤ 53,1-12;  ルカ 23,26-43

今週は受難週である。今日が、イエスが十字架につけられるためにエルサレムの町に入った日、民衆が棕櫚(又は「ナツメヤシ」)の枝を手に持って迎えた所から「棕櫚主日」(英語ではPalmsunday)の名がある。今週の金曜日が「受苦日」、来週の日曜日が復活日だ。

受難週にちなみ、特に、旧約聖書のイザヤ書53章について話す。普通は、福音書の該当個所を取り上げる所だが、イエスの生き方の背後には旧約聖書の思想や信仰が強く流れているので、今日はその点からイエスの苦しみの理解を試みたい。

 

イザヤ書40-55章は、1-39章とは別の預言者の言葉を集めたもので、一般に第二イザヤと呼ばれている。第一イザヤでは正義と公平を求める厳しい要求が目立っているのに対し、第二イザヤには苦しみからの救済という慰めに満ちた調子がある(40,1-2)。

それは、彼の生きた時代と関係する。

B.C.587年、バビロニア王ネブカドネツアルは南王国ユダに侵攻、エルサレムを占領し、王を始め主だった人々を捕らえてバビロニアに移した。「バビロニア捕囚」である。この、屈辱的な民族体験、イスラエル民族が絶望に瀕していた苦しい時代に、第二イザヤは預言者としての活動を始めたのであった。

「バビロニア捕囚」は約50年間続くが、B.C.539年に、新興ペルシャ帝国初代の王キュロスがバビロンを征服し、これによって「捕囚からの解放」が実現する。そして、捕囚後にかけての激動の時代に、第二イザヤは預言者としての活動を続けた。

このような時代に預言者は何を語るか。

厳しい言葉と共に、慰めに満ちた言葉をも語らなければならない。第二イザヤがやったことはそれである。彼が晩年に残した「主の僕の歌」(42,1-4、49,1-6、50,4-9、52,13-53,12)は全部で四つあるが、これはその典型である。例えば、。何という慰め深い言葉であろう!しかし、我々はすぐに気づくであろう。後の二つの歌(、)においては、主の僕自身が人々の代わりに苦しむという思想が現れていることを。

真の慰めは、単なる口先の言葉であってはならない。そのことを知っているから、我々は苦しむ人を慰めようとして、しばしば言うべき言葉を持たないのである。せめて、慰める者自身が相手と同じような苦しみを経験していれば、たとえ言葉にはならなくても、一緒に涙を流すだけであっても、慰めには真実がこもるであろう。しかし、もし相手の苦しみを代わって負うことができるならば、その時こそ慰めは最も真実で、深いものとなる。「主の僕の歌」が我々に示しているのは、この次元である。

イザヤ書53章を読むと、「主の僕」と呼ばれる不思議な人物が苦しんでいることを知らされる。それは彼自身の罪のためだと我々は思っていたが(4b)、実は驚くべきことに、「わたしたちの背き、わたしたちの咎のため」であった(5)、というのである。彼が我々の代わりに苦しみ、それによって我々は癒された。これほど深い思想があるだろうか。

 

先週、家庭集会で熊本さんが証しをして下さり、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだことが聖書を読むきっかけだった、と言われた。金貸しのお婆さんを殺して金を奪った青年殺人者ラスコーリニコフと、どん底の家族を救うために自らは娼婦となった女性ソーニャが出会い、暗い部屋で、一本のローソクの光で、ヨハネ福音書11章の、「ラザロの復活」の個所を読む場面である。

実はこの直前、ラスコーリニコフがソーニャの苦しみを一層かきむしるように散々悪態を吐いて彼女を悲しませる場面がある。その中で、突然、彼は全身をかがめて床の上に体をつけ、彼女の足に接吻する。真っ青になって「何をなさるのです」と呟くソーニャに向かって、ラスコーリニコフは、「僕はお前に頭を下げたのじゃない。人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ」(米川訳)と言う。

ドストエフスキーは、「苦しみ」に注目した作家だと思う。この世界には、ゆえなくして苦しめられている人々がどんなに多いか。彼の作品の至る所に、小さな子供の悲しみや泣き声が出てくるが、人間だけではない。飼い主に滅多打ちにされる年老いた馬なども登場する。世界に満ちているこのような理不尽な苦しみや悲しみには、果たして意味があるのだろうか。ドストエフスキーはそのことを問うた人であった。

だが、人類の苦しみが、無意味な筈はない。ドストエフスキーは、そのことを確信していた、と私は思う。ラスコーリニコフがソーニャの前に跪いて、その汚れた足の爪先に接吻したのは、ここに崇高なものがあると信じたからだ。この苦しみが、他のすべての人々を支えている。そこに集約されて現れている人類全体の苦しみの前に、彼は頭を下げる。そして、このような思想の背後に、キリストの苦しみがあることは疑いを入れない。

ボンヘッファーは、このイザヤ書53章を念頭において、神ご自身が苦しむという思想を一つの詩に現した。「人々はご自身の困窮の中におられる神に行き、神が貧しく、辱められ、枕する所もパンも持たないことを発見し、彼が罪と弱さと死に飲み込まれているのを見る。キリスト者は、苦しみの中にある神の傍らに立つ」。

つまり、イザヤ書53章は、ここではイエスその人とこの上なく深く結びつけられている。この苦難には世界史的な意味がある。メシア的苦難!そして、キリスト者は、このメシア的苦難に与るものだ、というのである。

 

 

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