イエスの受洗

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イエスの受洗

村上 伸
イザヤ書42,1-7;

1月6日は顕現祭(エピファニー)であった。公現祭ともいう。マタイ福音書にはメルヘンのような話がある。東の方から占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやって来たというのである。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた(2章11節)。古代教会は、この日を顕現日と定めた。この日に、イエスの栄光がはるか東方の博士たちにも、つまり、全世界に現われたというのである。主の栄光が顕現した、あるいは公に現れた。それ以来、この日はキリスト教会の重要な祝日として祝われてきた。

この日に関してはいくつかの伝説がある。イエスがカナの婚礼(ヨハネ2章1節以下)に出席して、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行ったのはこの日だ、というのもその一つだ。また、イエスが洗礼を受けたのはこの日だ、と言う人々もいた。イエスの受洗に関する記事(マタイ福音書3章13-17節)が今日の説教テキストに選ばれているのは、そのためであろう。

いずれも史実とは言えないが、イエスの誕生が世界史の中で極めて重要な意味を持っていたということを、教会はこういうやり方で明らかにしようとしたのであろう。そのことを心に留めながら、今日はイエスの受洗について考えてみたい。

 

13節に、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためであるとある。その頃ヨハネは、民衆に罪の悔い改めを迫る説教者として近隣に広く知られるようになっていた。彼の語る言葉には真実があり、胸を打たれた人々はそのことを言い広めたのであろう。エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた(5-6節)。

イエスは、それらの民衆と同じように、ヨハネから洗礼を受けたいと思って彼のところに来た。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとした(14節)という。ここは未完了形だから、何度も繰り返し、強く断ったという意味である。何故だろうか?

ヨハネには、イエスの神の子としての本質が分かっていた。だから、(イエスは)わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる(11節)と言ったのだ。そのイエスが、一般民衆と同じように罪を悔い改めるしるしとして洗礼を受ける必要があるだろうか? とんでもない!と彼は言う。わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへこられたのですか(14節後半)。罪なき神の子イエスが罪を告白して洗礼を受けるなどということは、ヨハネには考えられないことであった。強く断ったのは、そのためだろう。

だが、イエスは今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです(15節)と主張して、敢えてヨハネから洗礼を受けたのであった。罪なき神の子が悔い改めの洗礼を受ける。このことに首を傾げる人もいるかもしれない。これでは、イエスがご自分の罪を認めたことになるではないか?

だが、反問したい。それではいけないだろうか?

そもそもイエスは、苦しんでいる人を助けるためには、自分が罪人の汚名を着せられることも厭わなかった方である。このことを忘れてはならない。

マタイ福音書12章には、彼がある安息日に会堂の中で片手の萎えた人に出会い、その人を癒されたという話がある。ユダヤには厳しい掟があって、安息日には決してしてはいけないと禁じられていた行為は無数にあり、医療行為もその一つだった。意図的にそれに違反した者は、死刑に処せられる。だが、イエスは、苦しんでいる人をそのままに放置して置くことができなかった。それ故、その人を癒したのである。その現場を、ファリサイ派の人々(律法原理主義者たち)が見ていた。彼らは、意図的に律法を破ったイエスは律法の規定通りに裁かれなければならない、と考えた。だから、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した(14節)のは、律法に照らして正しかったのである。

 

30年の短い生涯の間、イエスはただひたすらに人を愛し、苦しんでいる人々に救いの手を差し伸べた。最後には、その愛のために自分が罪人として裁かれる運命も敢えて引き受けた。彼は武装した兵士たちによって凶悪犯のように捕らえられ、被告として宗教裁判にかけられ、神聖冒涜の罪で死刑を宣告され、二人の死刑囚と一緒に十字架上で処刑された。これが、イエスという方の一生であった。

このことに深く打たれたボンヘッファーは『現代キリスト教倫理』の中でこう書いている。人間をその罪の中にひとりで放置しておくのは、現実の人間に対する対し方ではない。イエスは、人間に対して責任をもつ方として、罪ある者となる。これは、ただ彼の愛の故である。彼の無私の愛、罪なき本質から出て、イエスは人間の罪の中に歩み入り、人間の罪をご自身の身に負い給う(273頁)。

 

こう考えてくると、他者のために罪責を引き受けたイエスがご自分の罪を告白するような形で洗礼を受けたのは首尾一貫していると言わなければならない。



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