サルディスは、小アジア(現・トルコ)西部、エフェソから北東へ約100kmの所にある町である。紀元前7世紀頃にはリュデイア王国の都として経済的にも栄え、密儀宗教の壮麗な神殿などもあったという。標高400mほどの岩山の上に難攻不落を誇る城郭があったが、紀元前218年に外敵が岩の裂け目をよじ登って奇襲攻撃をかけ、これによって落城したと伝えられる。その後、紀元17年に大地震があって町は壊滅し、衰微して、『ヨハネ黙示録』が書かれた頃は一寒村であったらしい。
さて、この寂れた町にも教会があった。その教会が当時どういう状況にあったか、詳しいことは何一つ分からないが、ヨハネはこの教会に対して、「神の七つの霊と七つの星を持っている方」(=イエス)の言葉として、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死にかけている残りの者を強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」(1-2)と語る。かなり厳しい調子でこの教会の「沈滞ムード」を叱責しているのだ。ティアティラ教会に対しては、その苦労を認める温かい言葉(2,19)をかけているのに比べて、これは厳し過ぎると感じられないだろうか。
注解書の中には、サルディス教会のこのような状態は、前に述べたような事情で町自体が衰微したという経験を反映するものだと推測しているものがある。もちろん、教会が地域社会から何らかの影響を受けるのは確かだから、この解釈も間違いとは言えないだろう。ベルナノスの『田舎司祭の日記』にも、沈滞した気分が「灰のように降り積もっている」村と、そこにある教会が描かれている。
私自身、神学校を卒業して直ぐ開拓伝道に赴いた時、眠ったような田舎町にたった独りで放り込まれたように感じて、どこから手をつけたらよいのか分からず、気が滅入った。だが、過疎の村に赴任した友人たちの話しを聞くと、それどころではないらしい。来る日曜日も来る日曜日も、礼拝に出席するのは「妻だけだった」とこぼした人がいる。誰も来ないので「壁に向かって説教をした」という人さえいる。廃鉱になった炭鉱の町や、自然災害によって破壊された町々にも、似たような状況があるかもしれない。仮りに、そういう所の教会に、沈滞した気分が「灰のように降り積もった」としても、誰がそのことを責められよう。
だが、町が寂れているからといって教会が必ず沈滞するとは限らない。ヨハネがサルディス教会の沈滞ムードを叱るのは、そのことを知っているからである。教会は人数ではない。主イエスはある時、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18,20)と言われた。どんなに小人数でも、その教会が自らの中に神の言葉の生命力を、芥子種(からしだね)やイースト菌のような生命力を持ち続けるということが問題なのだ。
シモーヌ・ヴェイユは、「イエスは二人または三人がと言ったのであって、百人も二百人もとは言わなかった」と書いているが、これは正しい。無論、仲間が増えるのは喜ばしいが、うっかりすると質が変わって「自己保存」だけにエネルギーを消費する団体に成り下がることもある。小人数でも、本当に語らなければならない真実を語り、どんな人とも「共に生きる」交わりを堅く保ち、そこに真の「シャローム」があるならば、それは「創造的な少数者」である。初代のキリスト教会は「創造的少数者」であった。変革前の東ドイツでは、教会が「創造的少数者」として生きていた。日本のキリスト教はどうであろうか? 人口の僅か1%というが、「創造的少数者」であることは出来る筈だし、そうでなければならない。代々木上原教会も同様だ。
ヨハネはここで、サルディス教会をただ冷たく責めているのではない。厳しく叱責しながらも、「創造的少数者であれ」と励ましているのである。「目を覚ませ」(2)。
「目を覚ます」とはどういうことか。
ヨハネはそれを具体的に、「どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ」(3)と言い直す。あなたがたは、一度、福音を受け入れた筈だ。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。… 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3,16-17)という神の言葉を、十字架と復活の真理を、一度は聞いた筈だ。それを思い起こしなさい。初心に帰ってこの真理を守り抜きなさい。そして、悔い改めなさい。これが、「目を覚ます」ということである。
今日は待降節の第三主日だが、「アドヴェント」には「主が再び来たり給う」という意味もある。我々は「再び来たり給う主」に対して、相応しい在り方をしなければならない。それは「目を覚ましている」ことである。「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう…」(3b)。
ヨハネは最後に、慰め深い言葉を書く。「しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう」(4)。かつて聞いた神の言葉を思い起こし、絶えず初心に帰ってこの真理を守り抜き、悔い改める者たち。目を覚ましている者たち。「少数ながら」そのような人々がいる、というのだ。「創造的少数者」! 「白い衣を着て」(4b)、つまり、地上にある内から既に天に属している人々。「命の書」に名を記される人々。「勝利を得る者」(5)。サルディスにも、こういう人々がいる。われわれは、このことを信じる。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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