義に飢え渇く人は幸いである”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、八福の教えの中の
”義に飢え乾く人は幸いである”ということを考えてみました。八福の教えの第四番目は、
「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」というものです。「満ち足りる」‥‥、これは、この世に生きる私たちにとって大きな課題です。「満ち足りる」という言葉は、原語のギリシャ語では、「満腹になる」という意味です。満腹になると、もう何も食べたくなくなりますね。どんなに美味しそうなものでも欲しくない。それだけ満たされているということです。では、人の心はどうでしょう。もし人の心が満ち足りることができれば、それは本当に幸いなことだと思います。最近のニュースは、聞いていて辛くなるニュースが実に多いです。人の命を奪うという事件が絶えません。評論家や精神科医が、殺人犯の背景を分析し、殺人に至った原因を究明しようとしますが、人の心の中というのは、そう簡単には分かるものではありません。 しかし、一つだけ、はっきり言えることは、「彼らは満たされていなかった」ということです。だから、その心の隙間を何かで満たそうとしたに違いないのです。人は「心の飢え渇き」というものを、色んなもので満たそうとします。ある人は、お金で満たせると思います。また、ある人は、名誉、名声で満たせると思います。あるいは、誰か好きな人ができれば、それで満たせると思います。そして、誰からも相手にされなかった人の中には、人の目を自分に向けさせることによって心を満たそうとして事件を起こします。しかし、そういうもので心の飢え渇きを満たせるものではないのです。イエス・キリストは、
「義に飢え渇いている者は幸いである」と言われました。ところで、義とは何でしょうか。義とは、正しいこと、正義という意味です。しかし、ここでいう正義は、人間の正義ではなく神の正義です。人間の正しさは、いい加減なものです。人間は何が正しいかということで、いつも争っています。正しさ、正義というものを巡って、争いを起こしています。お互いに譲らず、自分にとって都合の良いものを正しい、正義だと主張するのです。したがって、自分を正しいとする人々の中には本当の幸いはないのです。だからこそ、
「義に飢え渇いている者は幸いである」と主イエスは言われたのです。なぜなら、自分の中には本当の正しさなどないことを認め、そこから本気になって真の正しさ、神の正義を求めるようになるなら、やがてそれを見出し、満ち足りることができるからです。 大切なことは、私たちの自己本位な正しさが打ち砕かれ、本当の義を求めることができるかどうかということです。私たちは、正義感に溢れて他者の不義を非難し、それによって満足感に浸るという過ちを犯しやすい者です。しかし、そういう心は満ち足りることができません。主イエスは、義に飢え渇く人こそが満ち足りるようになる、と約束されました。神の義への飢え渇きは決して虚しくなることはないのです。神ご自身が満たして下さるからです。この世には既に神の義が示されています。どこを見れば分かるでしょうか? 主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を見れば分かります。キリストの苦難と死と復活においてこそ、神が神であられることが貫かれています。神は不義に生きる私たちの罪を赦し、永遠の命への道を開かれるのです。
今日の一言: 義に飢え乾く人は幸いである平安鶴田牧師
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