地図と実際の地形が一致しないなら、地図のほうが間違っている

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

少し前にある本を読んでいた時、次のような文章に目が止まりました:

「もし地図がその場所の様子と一致しないなら、地図が間違っているのです。」

その本の文脈は別の主題についてのものでしたが、これは聖書解釈についても当てはまるものだと思いました。

地図とは、「地球表面の一部または全部を一定の割合で縮小し、記号・文字などを用いて平面上に表した図」(小学館デジタル大辞泉)と定義できます。地図は実際の地形をただ単に縮小した画像ではありません。実際の地形には「東京」というような地名が書き込まれていたり、等高線が記されているわけではありません。地図上に記されている地名や線や地図記号は、私たちが実際の土地と関わっていく際に必要な「意味」あるいは「情報」を生み出す枠組みを提供しています。これらの助けによって、私たちは旅をしたり都市計画を立てたりすることができるわけです。

地図は有益なものであり、そして必要なものです。ある町からの別の町までの距離を測るのに、そのつど実測しなければならないとしたら不効率極まりない話ですが、地図があれば簡単にできます。そして地図は大体において正確なものであり、信頼できるものです。しかし、いつもそうだとは限りません。実際の地形が地図と一致しないこともあります。地図に書かれている目印が存在しなかったり、地図では通れるはずの道が行き止まりになっていたりします。そのような時、どうするでしょうか?

地形が地図と一致しないなら、地図を書き直すのです。

聖書解釈においても、同様のことが言えるのではないかと思います。聖書に限らずあらゆるテクストに当てはまることですが、誰も聖書を先入観なしで読むことはできませんし、何の解釈も通さずに読むということは不可能です。そのため、私たちは「聖書とは何か? それはどのように働くのか? それをどのように読むべきか?」という重要な問題について、何らかの前提的理解を持って聖書テクストに向かいます。それは組織神学で言う聖書論を含み、また解釈学的方法論を含みますが、これらを学問的に学んだことも意識したこともない人であっても、これらについて何らかの理解を必ず持っています。

これらが私たちが聖書を読む際に用いる「地図」の役割を果たします。人が聖書をどのような書物と考え、どのように解釈すべきと考えているかによって、それぞれの人が持つ「地図」は異なってきます。たとえば聖書を命題的真理のコレクションと見るか、それともナラティヴと考えるかによって、私たちは異なる「地図」を手に聖書に向かうことになります。

実際の「地図」が旅行や測量に役立つように、私たちの「聖書の地図」も、聖書を理解するのに大いに役立ちます。けれども、時として「地図」(解釈の枠組み)と「地形」(実際の聖書のふるまい)が一致しないように思えることがあります。藤本満先生のゲスト投稿シリーズ第8回で提起されている、新約聖書における旧約引用の問題もその一つと言えるでしょう。具体的に言うと、福音主義の「歴史的文法的釈義」という「地図」が、新約記者の旧約引用という「地形」と一致しないように見える、という問題があるのです。

このような問題に対して、福音派の多くの解釈者が取ってきたアプローチは、自分たちの歴史的文法的釈義の方法論を変えることなく新約記者の釈義を説明しようとするものでした。つまり、自分たちの地図が間違っているかもしれないと考えるのではなく、その地図に合うように実際の地形を変えようとしたり、それはやはり地図と一致しているのだと論じようとしてきたのです。

けれども、もう一つの方法がありえます。それは、実際の地形に合わせて地図を書き換えるというものです。上の問題について言えば、新約記者が行っているような、旧約原文で意図されている意味を超えた意味をキリストというレンズを通して見出していく「キリスト目的的解釈」という要素を私たちの解釈学的枠組の中に取り入れることです。これによって、私たちは新約聖書における旧約引用箇所を解決すべき(できれば触れたくない)問題と見るのではなく、使徒たちの聖書観や信仰について教えてくれる豊かな源泉として見ていくことができるようになります。

地図を書き換えることは聖書に対する冒涜ではありません。むしろ、聖書の真の姿に私たちの理解を合わせていこうとする試みです。逆に、地図と実際の地形が合わないからといって、地図に合わせて地形を変えようとするのはおかしなことです。地図にない山があるからといって、その山を削ろうとする人はいません。

私たちが自分の「地図」(解釈理論)に聖書がうまく当てはまらないからと言って、それに合うようにテクストを捻じ曲げたり無視したり、苦しまぎれのこじつけに終始したりすることは、かえって聖書の真の姿を見えなくし、そのメッセージを正しく受け取ることを妨げることになるのではないかと危惧しています。私たちが持っている「地図」は実際の聖書そのものではありません。けれども「聖書はこのようなものでなければならない」という特定の「地図」をまるで信仰箇条のように絶対化して、それを実際の聖書に押し付けていくならば、それは一種の偶像礼拝に陥っていく危険性はないでしょうか。もし私たちが真理を追求し、聖書の権威を重んじると言うなら、聖書が実際にどう振る舞うかに合わせて私たちの解釈的枠組みを謙虚にまた柔軟に変えていくのは、とても大切なことだと思います。信仰は盲信とは違います。眼の前に山があるのに、「地図には山が載っていないからこの山は存在しない」と言い張るのが、本当の聖書信仰ではないはずです。

もちろん、本当に地図が地形と一致していないのかどうかは、慎重に見極める必要があります。よくよく確かめもしないまま、「地図が間違っている」といって、そのたびに書き換えていたのでは混乱が生じます。しかし、長年にわたって多くの人々が繰り返し検討した結果、地図と地形が食い違っている可能性が大きい場合には、地図の書き換えについて検討する必要が出てくるのは当然です。

聖書に関して言えば、上で述べたような歴史的文法的解釈だけでなく、藤本先生が当ブログで継続中のシリーズや『聖書信仰』で紹介してくださっているような、17世紀ヨーロッパで生まれてアメリカに渡り、プリンストン神学校からシカゴ声明に至る逐語霊感や無誤性といった福音派の標準的聖書モデルも、再検討が必要な時期に来ていると思います。藤本先生も指摘しておられるように、すでにウォーフィールド自身、将来的に研究が進んで「解決」されるのを待つほかはない問題があることを認めていますが、21世紀の今日も依然として聖書論に関する議論が起こっていること自体、そのモデルの妥当性が「証明」されるにはいまだ程遠い状況であることを雄弁に物語っています。だとすると、それが間違っているとまでは断言しなくても、少なくとも別の視点から捉え直す可能性について検討することは許されるのではないでしょうか。

このエッセイは藤本先生のゲスト投稿によって提起されている問題について、短い応答のつもりで書きました。私は現在自分が採用している聖書解釈の枠組みが完璧なもので、永久不変の真理だなどとは微塵も思っていません。そうではなく、これまで自分が持っていた「地図」が実際の聖書のふるまいには合致しないと感じるようになったため、その「地図」を聖書に合うように書き直そうと努力しているだけなのです。このプロセスはこれからもずっと続いていくことでしょう。私たちの「地図」は絶えずアップデートしていく必要があるのです。結局のところ、本当に大切なのは実際の土地(聖書)であって、地図(私たちの聖書論や解釈モデル)ではないのですから。

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Emmanuel

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