確かさという名の偶像(23)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第12章「十字架の約束」を取り上げます。

前章でボイドは、私たちが神に対して信仰を持つときに信頼すべきなのは、神が何らかの具体的な祝福を与えてくださるという「約束」ではなく、祝福してくださる神ご自身のご性質であると論じました。この最後の章でボイドは、そのような、私たちが信頼すべき神のご性質は十字架に完全に表れていることを論じていきます。

十字架の中心性

ボイドによると、クリスチャン信仰の中心は十字架です。

すべての余計なものを取り除いたあとに残るのは、ただ十字架のみである。十字架において神はご自分の真のご性質を表され、その愛の力によってご自分の似姿につくり変えられるようにと、私たちを招いておられる。私たちは自分の堕落した利己的な性質が十字架の形をした(cruciform)神のご性質につくり変えられることを信じる。単純明快に言って、これこそ神の国である。(p. 233)

ボイドは、「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」(1コリント2章2節)というパウロの言葉を取り上げ、イエス・キリストの十字架に表されている神のご性質と人間に対する態度こそが、信仰を持つにあたって私たちが信頼を置くべきものであると主張します。そして彼がこれまで論じてきたように、これは信仰の知的土台であり、聖書解釈の中心点でもあります。信仰のすべての側面は、「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」を中心としているのです。

十字架の約束

ボイドは私たちが信頼を置くべき、神が十字架において与えてくださっている三つの約束について語りますが、実際この三つは互いに密接に関係しています。第一は「神がご自身について語られることば」です。私たちと神との関係が人格的契約関係であり、私たちが信頼を置くべきなのが神ご自身のご性質であるなら、神が実際にどのようなお方であるのかを知ること、つまり正しい神観を持つことは信仰の一番の基礎となります。十字架が啓示しているのはまさにそのような神の真の姿であるとボイドは言います。

したがって、人格的契約という文脈で言えば、十字架はまず何よりも私たちの天の花婿の真のご性質の完全な開示であり、彼が私たちを取り扱うにあたって、この犠牲愛に満ちたご性質をあらゆる場合に実証してくださるという約束なのである。そしてこのプロポーズに対して「はい」と言うすべての者にとっての第一の、そしてもっとも重要な責務は、そのことばをそのまま受け取り、私たち自身の彼との関係、そして全ての他者との関係において同じ性質を育んでいくという約束をもって、それに応えることである。(p. 236)

これは信仰者の実際の生活において何を意味しているのでしょうか?ボイドによると、それはたとえば私たちが極度の苦難に遭ったとき(親しい者の死や人間関係の破綻、病気、災害など)、それらの悪が何らかの形で神のご性質を反映していると考えてはならないということです。

私たちがイエスに目を注いでいる限り(ヘブル12章2節)、私たちは神がいつでも私たちの味方であり、決して私たちに敵対されるお方ではないことを信頼できるし、またそうすべきである。私たちが現在経験している五里霧中の戦いにおいて決定的に重要なことは、何が神から来ていて何がそうでないのかを見極めることである。サタンの中心的戦略はいつでも、恐ろしいことを行い、あるいはそうするように他者をそそのかしておいて、その後私たちを欺き、それらの恐ろしいできごとが神に起因するものだと思い込ませようとするものであった。サタンが成功する度合いに応じて、彼は神について私たちが持っているうるわしい心的イメージを損なうことができ、それは今度は私たちの神に対する信頼を損なわせ、私たちがまことのいのちを体験する能力を妨げ、私たちが神の似姿に変えられていくことを妨げるのである。(p. 238)

ボイドは私たちが経験するあらゆることがらのうち、十字架に表された神のご性質を反映していないものはすべて、神以外の存在の意志(人間であれ天使であれ)に帰すべきであると論じます。しかし同時に、神はご自分の意志に反するようなすべての悪に打ち勝つことができることも私たちは信頼することができます。なぜなら神は十字架において敵を出し抜き、彼らが企んだ悪を人類と全被造物の解放という究極的な善に変えられたからです。パウロは次のように言っています。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ8章28節)

ボイドの解釈によると、ここでパウロは神が(悪も含めて)すべてのことを引き起こしたと言っているのではありません。しかし、誰によって引き起こされたものであれ、すべての状況にあって神は悪から善を生み出すために働いておられるのです。しかも、神はそのことを彼に信頼する人々(「ご計画に従って召された者たち」)と「共に働いて」行われるのです。

このように、ボイドの神学は徹頭徹尾「キリスト中心」「十字架中心」であることが分かります。次回は十字架で神が提示しておられる残りの約束について見ていきたいと思います。

(続く)

 

 

 

 

 

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