確かさという名の偶像(5)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(シリーズ過去記事 1 2 3 4)

前回に引き続き、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」について見ていきます。この章で彼は確実性追求型信仰の持つさまざまな問題点を指摘しています。

神観の違い

まずボイドは、あらゆる神学や実践の妥当性を判断する際に用いるべき重要な基準について述べます。それは、「そのような神学や実践は、どのような神観を前提としているのか?」ということです。

より具体的に言うと、神の真のご性質の究極的啓示はイエスであるので(ヘブル1章3節)、私たちは特定の信条や実践が前提としている神の像が、キリストにおいて表された神について私たちが知っている内容と整合性があるのかどうか、を常に問う必要があるのだ。(p. 37)

前回の記事で紹介した、がんに冒された若い男性のいやしを求める祈祷会で、ボイドの頭の中にはもう一つの奇怪なイメージが浮かんできました。その中で神は天から地上を見下ろして、彼らに向かってこう言います。「もし私がこのがんをいやすことをおまえたちが確信するなら、私はそのことをしよう。けれども、そうしないなら、彼は死ぬだろう。」ボイドには、あたかも神がこの男性を人質にとって、彼の頭に銃を突きつけ、そのいのちを助けて欲しければ彼が助かることを確信するようにと脅迫しているように感じたというのです。

その時ボイドは、これはイエスがなさるはずこととはかけ離れていると思いました。それどころか、人間があることがらを心理的に強く信じ込めるかどうかによって、人をいやしたりいやさなかったり、救ったり救わなかったりする神は、信仰者に信じられないことを信じるという心理的な拷問を強いる、サディスティックな「アル・カポネ的神」であると言います。つまり、確実性追求型の信仰が描き出す神観は、イエス・キリストにおいて啓示された聖書的な神観とはかけ離れているのです。

信仰と魔術

ボイドが指摘する確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、このようなタイプの信仰は聖書的な信仰を魔術と置き換えてしまうことだということです。「魔術magic」とは、ある特定の行動をとることによって、霊的世界に影響を与え、それを通して何らかの利益を得ようとする行為をさします。ボイドは聖書的信仰と魔術の違いを説明します:

「魔術」と聖書的信仰の間にある多くの相違点の一つは、魔術においては究極的にはそれを実践する者が利益をえるために行われる行動が重要であるのに対して、聖書的信仰では相互の信頼に基づく契約的な関係を養うことが重要だということである。そして、信頼に基づくすべての人間関係がそうであるように、神と人との関係はお互いに対して益となるのだが、彼らは何か他の目的のための手段としてそのような関係に入るわけではない。魔術的信仰は功利的であるのに対して、聖書的信仰はただ誠実なものである。(p. 39)

さて、このような信仰と魔術の違いを認識すると、確実性追求型の信仰は実は聖書的信仰よりも魔術に近いということが分かります。たとえば、ある人の病のいやしのために祈る時、確実性追求型信仰者は、特定の利益(この場合は病のいやし)を得るために、霊的世界(この場合は神)に対して影響力を与えるべく、特定の行為(この場合は、神がいやしてくださるという心理的確信を持つこと)を行います。これは聖書的な信仰者の祈りと一見同じように見えますが、その動機と、その人の内面で起こっているプロセスはまったく違うものです。

さらにボイドは、この種の信仰が「救い」ということに関してはさらに深刻な問題をはらんでいることを指摘します。確実性追求型の信仰によると、人間の救いはある特定の「救われるために最小限必要な」教理をその人がどれだけ確信を持って信じることができるかによって決まります。同時に、すべてのクリスチャンが罪を犯す存在であることは広く認められているにもかかわらず、ある特別重い罪があって、その「一線を越えてしまう」と、悔い改めない限りその人は救いを失うと考えられています。たとえば、多くのクリスチャンは貪欲や大食やゴシップは(それが聖書の指摘する罪であるにもかかわらず)大した罪だとは考えていませんが、同性愛のような罪は「滅びに至る」罪であると考えています。ボイドがここで問題にしていることは、個別の罪の軽重を比較することではなく、このような物の考え方は聖書的なものなのか、それとも魔術的なものなのか?ということです。彼によるとそれは後者です。

多くのクリスチャンは、ある特定の「救いに必要な」教理を十分な確信をもって信じ、「一線を越える」ような種類の罪を犯さないように努めることで、神から救いを得ようとします。ボイドによると、これは魔術的な信仰理解です。もちろん、そのようなクリスチャンが信じている内容は異教の魔術とはまったく異なるものです。しかし、彼らの信仰の持ち方、そして信じる動機は非常に魔術的であるとボイドは言うのです。

次回も2章の続きを見ていきます。

(続く)

 

 

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