今日で「主の祈り」についての連続講解公開説教は終わる。来週は受難週なので、「苦しみの意味」について、イザヤ書53章をテキストにして話す予定である。
さて、「主の祈り」の最後の祈願は、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」である。ルカでは単に、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」となっているが、これはヤングによると、ユダヤ的特徴を除こうとしたルカの手法を示すもので、マタイ版の、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」の方が、従って現行の形が、オリジナルに近いと言う。私も、それに従いたい。
二つの似たような意味の文を重ねるやり方は、ユダヤ人の言葉の使い方では「対句法」といって、普通は、第二句が最初の句の思想を更に補強するのだと言う。だから、「誘惑に遭わせず」と、「悪い者から救ってください」は別々のことではない。一つの祈りの複合的な表現と見るべきだろう。
さて、「試み」とか「誘惑」とか訳されている言葉は、イエスが話していたヘブライ語に戻せば、「ニサヨン」であったらしい。これは、 要するに「試練」のことだという。
聖書には、試練に遭った人々の物語がしばしば登場する。先程朗読した旧約聖書・創世記22章の有名な物語も、その一つである。アブラハムは年を取って、普通だったらもう子供は持てないと諦めた頃イサクを与えられ、この息子を深く愛した。ところが、その子を犠牲として捧げよと言う神の命令が来る。「神はアブラハムを試された」(1)。
女子大でこの話をすると、大抵の学生が先ず拒否反応を示す。「理不尽な話だ」というのである。なぜ神はわざわざこんな目に遭わせてまで、アブラハムを試みる必要があるのか。そもそも、「神は愛なり」と聖書にはあるではないか。まるで目の前にこの出来事が進行しているかのように、女子学生たちの憤慨はとどまる所を知らない。
確かに、理不尽な話である。
しかし、聖書にこういう話が出てくるからと言って怒るのは、順序が逆だと言わねばならない。この世界には、我慢できないほど「理不尽なこと」が満ちており、この現実から聖書は出発しているのである。もしかしたらアブラハムは、眼に入れても痛くないほど愛した独り子を、病気か何かで失いかけたという経験をしたのかもしれない。そういう時、人は「神様、何故なのですか?」と尋ねるが、答えはない。このように「理不尽なこと」は、世界に満ちているのである。
先日天に召された川西田鶴さんは、結婚早々、二人の幼子を相次いでなくされた。その後生まれて、立派に成長した一人の息子さんは、前途を期待されながら若くして召された。どんなに辛かったことか、と胸が詰まる。「神様、何故なのですか?」。このように理不尽なことは、世界に満ちている。「非条理」(カミュ)。エリー・ヴィーゼル。
聖書は、この「理不尽なこと」を敢えて神の前に持ち出して、叶わぬまでも神の答えを求めようとする。詩編の作者たちは、しばしば「神様、何故なのですか」と問う。彼らは、自分から「この出来事にはこれこれの意味がある」と性急に断定はしない。最後の結論は保留して、常にただ神に向かって問い掛ける。そして、「これは神が与えられる試練かも知れない」と言う。聖書がやっていることは、これ以上のことではない。
イエスも試練に遭われた(ヘブライ4,15)。彼の一生は試練の連続であった。洗礼を受けたばかりのイエスが荒れ野で悪魔の誘惑にさらされたというマタイ4章の記事は、このことの象徴と言えるかもしれない。
彼は、何も悪いことをしたわけではない。ただ、人を心から愛した。それなのに、この世界は彼を抹殺しようとする。この「理不尽」が、彼を苦しめる。こうして、いよいよ最後の時が迫ってきた時、彼はゲッセマネの園で夜を徹して祈った。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14,36)。同じ言葉で彼は三度祈ったと言う。彼にはそのことが中々掴めなかったに違いない。だからこそ、三度繰り返して祈ったのだし、絶命する時には、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15,34)と叫んだのである。
「試練に遭うことは良いことだ」、と人は言う。
だが、そんなに簡単に、楽観的に断定して良いものだろうか。試練には確かに、「主の鍛練」(ヘブライ12,5以下)という一面がある。それは否定できない。だが、他面、投げやりで絶望的な生き方への入り口ともなり得るのである。「神の試練」として後から感謝できる場合もあるが、「悪魔の試み」もある。だからイエスは、「試みには遇わせないでください」と祈るべきである、と教えた。人間の現実を熟知する方の教えだ。
「悪より救い出し給え」という祈りも、そういう意味だろう。
マタイでは「悪い者」だが、これは単に「悪人」という意味ではない。人間の力をはるかに超えた「悪の力」が現実に存在する。『悪霊』(ドストエフスキー)、ナチズム、オウムのことを考えると、このことを認めずにはおられない。説教の前に詩編119,129以下を交読したが、133節に、「どのような悪もわたしを支配しませんように」という祈りがある。これこそ、私たちの祈りである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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