我らの罪をも赦し給え

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・3・14

我らの罪をも赦し給え

エゼキエル書 18,21-24;  マタイ福音書 18,21-35

「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」について。ルカ版では「罪」、マタイ版では「負い目」だが、ヤングによると、ヘブライ語の「負い目」とか「負債」という言葉には「罪」という意味もあるという。だから、「罪」という表現に統一する。

いったい、「我らの罪」とは何だろうか。

 ここでも、先ずイエスに注目したい。彼は、私たちが罪を犯す存在であることは認めていたが、それは社会的通念によって外から規定されるものではないと考えていた。宗教はしばしば、「何が罪か」ということを上から規定して、それを人々に押し付けるが、イエスはそういうことをしなかった。彼にとって罪は、神との人格的な関係の中で、自分から認識・告白される事柄であって、周りが決めつけるようなことではない。この点は重要だ。

「民衆の神学」の父と言われた安ビョンム氏は、マルコ福音書で「罪人」と呼ばれている人々の多くは、貧しいために安息日に会堂に行くことができないとか、行っても律法の規定通りの犠牲を捧げることができない人々のことであった、と言う。生きて行くために止むなく体を売った女性たちも、むろん、その中に入る。この人たちは、モーセ律法を原理主義的に理解した当時のユダヤ教支配者階級(祭司長・律法学者・ファリサイ派)によって、「罪人」というレッテルを貼り付けられた、というのである。

 中世の「魔女狩り」も、当時の教会の支配的な罪観念に基づいて起こったし、比較的最近のことだが、イスラムの最高指導者が、『悪魔の詩』という本の著者ラシュデイーに自ら死刑を宣告したことがある。教祖マホメットを誹謗したという理由による。

 仏教では昔、女性は「汚れている」とか「罪深い」とか教えた。今日でも、この教えに基づいて所々に「女人禁制」というルールが残っている(大相撲)。残念ながら、同様の考えはキリスト教にもあった。もう過去のことだと信じたいが、中世の有力な教会指導者が「女性は罪深い存在である」と教えたことがある。今日の礼拝後、「現代聖書研究会」で陶山先生が扱われるのはこの問題である。―――このような役割を宗教が果たしたことは認めざるを得ない。それとどこかで関係するが、同じことが政治の世界でも行われた。

 ヒトラーは、ユダヤ人であること自体が「罪」であると見做し、この人々は「諸悪の根元である」と断罪して「絶滅」を宣告した。又、共産主義者たちや、少しでも体制に批判的な人々の生存を許さなかったし、シンテイ・ロマ(ジプシー)や同性愛者など、ナチズムの支配にそぐわないと見なされた人々も、大量に虐殺された。我が国でも、「治安維持法」(1925)に「国体に反する罪」が明記されていたのは、そう遠い昔のことではない。

 このように、「罪」は多くの場合、「社会的な概念」である。ところが、先に述べたように、イエスはそのような見方に断じて同調しなかった。理論として展開することはしなかったが、彼の生き方がそれを証明している。彼は常に、社会から「罪人」のレッテルを貼られた人々の側に立っていた。その人々と交わり、食事を共にした(マルコ2,15)。そのために、「罪人の仲間」と見なされた。十字架につけられた遠因も、ここにある。

このことによって彼は、人を「罪人」と決め付けることは許されないということ、そして実は、そのような高慢こそが罪なのだ、ということを明らかにしたのである。

 

 もう一つの点に注目したい。

 我々の周りでは、「罪」が血統や出自と結びつけられて、どうしようもない「運命的なもの」のように受け止められることが多い。例えば、三浦綾子『氷点』は、殺人犯人を父に持つことを知らされた若い女性が「もう生きてはいけない」と感じる、その内面を描いている。三浦さんはあの小説で「原罪を問題にしたかった」という意味のことを言ったが、「原罪」をドイツ語ではErbsuendeという。つまり「遺伝する罪」である。

ところが、今日読んだ旧約聖書・エゼキエル書によると(18,4-13)、罪は「遺伝」したりはしない。たとえ父親が罪を犯しても、だからといってその子も罪人だとは言えない。それは神の前における個人の責任である。血統や出自ではなく、「正義と恵みの業を行わない」(18,5)ことが罪なのである。

 エゼキエルは、たとえ父親が罪を犯しても、その子が責任を問われることはないと言うことによって、観念の呪縛から私たちを解放している。そして、イエスもまた、私たちを解放した。世間がこぞってあなたに「罪人」のレッテルを貼ったとしても、あなたはそのことの故に罪人であるわけではない。我々はこの解放のメッセージ先ず目を留めたい。

 

そのことを明らかにした上で、「我らの罪をも赦し給え」という祈りについて述べたい。先に私は、ある人を社会的通念によって「罪人」と決め付けることは許されない、実は、そのことが罪なのだ、と述べた。我々は、しばしばこの罪を犯しているのではないか。また、エゼキエルは、「正義と恵みの業を行わない」ことが罪であると言った。この点でも、私たちには罪があることを認めざるを得ない。だから、赦しを祈るのである。

ただ、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と言う前半部分が問題である。マタイでは「自分に負い目のある人をように」、ルカでは「…」となっていて、どちらかと言えばルカの方が口にし易いが、我々には迷いが残る。

だが、昔のラビたちは、「神から赦しを願う前に、人は先ず自分の隣人を赦さねばならない」と教えたという。この点に注目すれば、迷いは解けよう。神に赦して頂くことと、自分の隣人を赦すこととは切り離して考えることはできない。今日の祈りは、この二つが一体であることの告白と言ってもいいだろう。

 

 

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