我らの日用の糧を今日も与え給え

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・3・7

我らの日用の糧を今日も与え給え

出エジプト 16,13-24;  ルカ 11,2-13

今日から「主の祈り」の後半部分に入る。

前半のキーワードは、神を意味する「あなたの」という二人称単数であった。そのことによって我々は、自分たちの願いに先立って何よりも先ず神の御名が崇められ・神の真実の支配が貫徹され・神の御心が行われるように祈らねばならない、ということを学んだのである。

だが、後半のキーワードは、「われら」という一人称複数である。つまり、我々はここで初めて自分たちのことを祈ることを許され、また命じられる。しかしながら、「自分本位の身勝手な願い」、他人のことはどうでもいいという「自己中心的な願い」や、「我先に自分の利益だけを追求する祈願」を持ち出しても良いと言うわけではない。

我々がこの世に生を受けた時、自分では何一つできない弱い存在であった。ポルトマン『人間はどこまで動物か』によると、人間はあらゆる霊長類の中で最も弱い状態で生まれてくるという。これは人間の本質を考える上で、極めて興味ある事実である。

我々は、人生のそもそもの初めから、自分を愛してくれる母や父、その他の人々の「愛」に一切を依存していた。そして、自分が大人になった時は、自分の愛を必要としている存在のために自分を捧げるのである。これが人間の本質である。人間は、自分一人の力によって、孤立して生きているのではない。他者の愛によって生かされ、また、他者を愛するために生きている。つまり、「われわれ」という形で共に生きるように造られているのである。人間は、「われわれ」として生きるのが本当なのだ。だから我々も、「私の…」とは祈らない。「我らの…」と祈る。こうして、人間相互間の関係が正しく整えられるようにという祈りが後半の中心テーマになる。

 

さて、「糧」について考えたい。

これは「食糧」、少し下品で恐縮だが、むき出しに言えば「食いもの」のことである。上品なクリスチャンの間では、精神的な意味合いを込めて、「心の糧」と理解される傾向がある。それも排除しないが、差し当たりはそういうことではない。「食べ物」のことだ。英語でもドイツ語でも、はっきり「パン」と訳しているが、その方が良い。

アンデルセンの童話に、ある家族が朝食の時に「主の祈り」を祈る所が出てくる。「日ごとのパンをお与え下さい」と皆が祈ると、小さな女の子が大急ぎで、「バターもつけてください」と付け加える。愛らしい場面で、微笑を誘われる。

パン・食い物・ご飯。「今日、おまんまが食べられますように」。そういう、具体的で切実な祈りだ。こういうことを求めても良い、いや、むしろ求めるべきだ、とイエスは言うのである。人間は肉体を持つがゆえに食べたり飲んだりする必要があるが、それを口に出しても、イエスは下品だとは言わない。そもそも彼は、ギリシャの哲学者のように、肉体を「精神の牢獄」などと一段低く見たりもしなかった。心と共に肉体を具えられた全体的な人間を、まさに神の被造物としてあるがままに重んじ、従って、食べたり飲んだりということまで含めて神のみ手に委ねるように、と彼は教えているのである。

 

次に「日用の」、あるいは「日ごとの」という言葉を取り上げよう。これは、我々が普通考えるよりも厄介だ。日本語ではどうと言うことはないが、元々ギリシャ語の「エピウーシオン」は、新約聖書ではここにしか出て来ないために意味がはっきりせず、古来学者たちの議論の的であった。何人かの学者が指摘しているように、箴言30,8(p.1030)の謙虚で慎ましい祈りと関連させて、「私のために定められたパン」という意味に取るのが良いであろう。ヤングは、「われらのなくてならない食物」と訳している。

これを理解するためには、「マナの奇跡」の記事(出エジプト16,17-24)が役立つであろう。イスラエル民族が40年の荒れ野の旅で、絶えず前途に不安を感ぜずにはおれないような状況の中で経験したことは、一日一日、その日皆で一緒に生きるのに必要な食糧は十分に与えられた、ということであった。これは民族の「原体験」の一つである。心配しなくてもいい。神はエジプトの奴隷状態の中からお前たちを解放してくださった方ではないか。そういう神があなたがたと共におられる以上、あなたがたにとって「なくてならぬもの」は、一日一日、必ず与えられる。「この先何年も生きていくだけの蓄え」(ルカ12,19)がなければ安心できないと考える必要はない。また、それができたからといって、何の保証にもなりはしない。

だから我々は、「十年分の食糧を下さい」とは祈らない。「われらのなくてならない食物を今日もお与え下さい」と、毎日、慎ましく祈る。これは、貯金や保険といったこの世の知恵と矛盾するものではない。貯金や保険は許される。しかし、そういうこの世的な知恵を働かせながら、我々は毎日、慎ましく祈るのである。

最後に、もう一つのことを言っておきたい。この祈りは、必然的に、この世界における食糧の公平な分配という問題につながる、ということである。一方には余剰農産物を抱えて困っている国があり、他方では何億という人々がそれこそ今日食べるものもなく飢餓線上にあるという状態は、神の御心ではない。

我々が「御心を地にもなさせ給え」と祈り、「我らのなくてならぬ食物を今日も与え給え」と祈りながら、飢えている人々を放置することは許されない。教会は率先して、人類の善意と英知を結集するために働くべきである。

ヤコブの手紙 2,14-17

 

 

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