今日は、東方の三博士が馬小屋のイエスを拝んだ日とされる「顕現祭」(エピファニー)である。そのことを覚えて、先程マタイ福音書2章を朗読した。
しかし、説教は『ローズンゲン』による今年の年間聖句「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない」(イザヤ12,2)に基づいて行いたい。
イザヤ書1-39章は、40章以下とは内容が明らかに違うので、普通「第一イザヤ」と呼ばれる。紀元前8世紀後半に南王国ユダの首都エルサレムで活躍した預言者である。ユダ王国はその頃まで繁栄していたが、外国の脅威にさらされて次第に陰りが見えるようになっていた。最大の脅威は、残忍な征服者アッシリヤ帝国からのもので、これに対抗するために、北王国イスラエル(エフライム)とアラム(シリヤ)は反アッシリヤ同盟を結んで、南王国ユダにも加盟を求めた。アハズ王がこれを拒んだために、両国は紀元前733-732年にユダを攻撃しようとした。これが「シリヤ・エフライム戦争」である。
この時、アハズ王とユダの人々は、「森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ 7,2)。今の言葉で言えば「パニック」である。しかし、イザヤは、「パニクッてはならない」と進言する。シリヤ・エフライム連合軍もまた、やがては滅びる一勢力に過ぎず、しかも世界情勢は変転極まりない。その中で無闇に慌てて軍事同盟に頼ったりすれば、却って災いを招く。むしろ、歴史を支配する神に信頼して落ち着いていなさい、と言うのである。
だが、アハズ王はイザヤの忠告を聞き入れずに、超大国アッシリヤの援助にすがろうとする。確かに、一時はそれで凌ぐことができて、当面の敵シリヤは732年に、エフライムは722年にいずれもアッシリヤによって滅ぼされるが、その後の歴史を見れば分かるように、ユダもこれを境に結局は滅亡への道を進むことになる。こういった世界情勢がイザヤ書の背景にあることを、我々は知らなければならない。
さて、「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない」(イザヤ12,2)という聖句であるが、ここで「わたし」と言われているのは、単なる「個人」ではない。もちろん、他の人とは直接の関わりがない、あくまで自分個人の問題のように思われる悩みは存在する。――例えば病気とか、生まれつきの性格とか。しかし、そういった純粋に個人的な悩みのように見えるものも含めて、我々が直面する問題の多くは、実は他者との関係の中で生まれてくるものだ。聖書の中に出てくる重要な概念(罪・死・救い・命、等々)のほとんどは「関係概念」だというのも肯かれる。
最近、親が子供を虐待するというニュースに心を痛めることが多い。肉体的にも精神的にもひどく痛めつけられて死ぬ子もあるが、死ななくても、痩せ細って成長が止まったりする。何よりも痛ましいのは、精神的外傷(トラウマ)だ。これは人格形成に重大な影響を残す。だが、話しを聞いてみると、その親自身が本当に愛された経験がない場合が多いという。そうなると、これは人間社会の歪みが生み出す問題と言わねばならない。
またチンパンジーの話で恐縮だが、によると、大人のチンパンジー同士は呆れるほど喧嘩をするが、母親は決して子供を叱ったり、折檻したりしないそうである。「親が子供をたたく場面は一度として見なかった」と彼は書いている。また、野生の場合も、「子殺しは25年に及ぶ観察期間中一例もない」という。むろん、これは種族保持という「本能」から来ることである。
もしかすると、「万物の霊長」とかhomo sapiensなどと言って威張っている人類は、「理性」を働かせなければならないという重大な使命に耐え兼ねて、人間関係を温かいものとすること・社会を正しく形成することにほとんど失敗したのではないか。テロや、報復戦争や、際限のない憎み合いを見ていると、そう感じる。
イザヤがここで「わたし」と言っているのは、彼個人のことでも誰か他の個人のことでもなく、このような社会を創り出し・それによって逆に影響も受けるすべての人間のことであり、我々一人一人のことである。
その「わたし」が「救われる」!
単に「外敵の脅威から」救われる、というのではない。むろん、聖書的な思考にはそういった歴史的な具体性も欠けてはいない。「出エジプト」がそうであり、「バビロン捕囚からの解放」もそうであった。
しかし、私は今日、それらを一貫している終末的な視点に注目したい。
イザヤは11章で、「その日が来れば」(10)と言っている。その日が来れば、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。…大地は主を知る知識で満たされる」(1-9)。イザヤは、「その日が来る」と信じたのである。だから、「わたしは信頼して、恐れない」。
だが、我々は「既にその日が来た」と信じる。もちろん、「既に完成した」というのではない。主イエスの誕生と共に万物の更新が始まった。新しい命は、地面に蒔かれた種のように、目には見えない程ゆっくりと、静かに、しかし確実にその営みを始めているのである。このことを信じて、「わたしは信頼して、恐れない」という聖句を心に刻み、共に今年の歩みを進めよう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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