「奴隷の家から導き出す」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

4月から『信徒の友』に、「十戒に学ぶ」という題で一年間連載することになった。そこで、一月に一度くらいの割で「十戒」について考えたい。

どの宗教にも大黒柱のような教えがあるが、ユダヤ教の場合、それは「律法」である。その中心は「十戒」で、これは 出エジプト記 20,1-17に記されている。同じ章の22節以下には「契約の書」と呼ばれる部分が続いており、そこには「刑法」・「刑事訴訟法」・「民法」などに類似する具体的な法的規定がある。こういったものを総称して「律法」という。

さて、「十戒」の内容は、

  1. あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
  2. あなたはいかなる像も造ってはならない。
  3. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  4. 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
  5. あなたの父母を敬え。
  6. 殺してはならない。
  7. 姦淫してはならない。
  8. 盗んではならない。
  9. 隣人に関して偽証してはならない。
  10. 隣人の家を欲してはならない、というものである。

これとほとんど同じものが、申命記 5,6-21にもある。しかし、今日は一つ一つの戒めを取り上げることはしない。むしろ、「十戒」を全体としてどのように受け止めるべきか、ということについて述べたい。

さて、「十戒」の中にはイスラームの戒律と共通するものもあるし、似たような戒めは仏教にもある。その意味では人類の「普遍的な道徳」という面もないではない。研究者たちの中には、周辺の諸宗教が「十戒」に与えた影響に注目する人もいる。

しかし、ユダヤ教徒は、これらの戒めを単に一般的な「道徳」としてではなく、「神がユダヤ民族に与えられた神聖な律法」として受け止めた。申命記 5,1-4 の書き方はそのことを示している。よく、ユダヤ人の「選民意識」と言うが、それは具体的には「自分たちには神から与えられた律法がある」という意識だった。それがしばしば彼らの高ぶりを招いたことは、パウロがローマ書2,17以下で批判した通りだ。

ところで、4ヶ月前の「同時多発テロ事件」は、一般には「イスラーム原理主義者」によって惹き起こされたと言われている。だが、「原理主義」は、自分たちが信じる宗教の教理や戒めを受け止める際の態度・姿勢に関係しているわけだから、なにもイスラームに限らない。イスラームとの和解を求めたガンジーを暗殺したのは「ヒンドウー原理主義者」だったし、ファリサイ派の「律法主義」も、一種の「原理主義」である。そして、むろんキリスト教の中にもそれはある。そもそも「原理主義」と訳された英語の「ファンダメンタリズム」は、最初、あるキリスト教徒たちの信仰の在り方、すなわち、教理・戒律を絶対の「原理」として厳格に守る生き方を評する表現だったのである。

数年前のことだが、あるアメリカのキリスト教徒のことが新聞に出ていた。この人は、「殺すな」という第六戒を重んじ、「人工妊娠中絶手術はこの戒めへの背反だ」として、かねてから中絶に反対していたが、その信念から、手術を実施している医院を爆弾で破壊した。その結果、医者や看護婦が何人も死んだという。何という矛盾!

原理主義というものは、戒めの字面にとらわれて生きた人間への配慮を失うという、致命的な矛盾を内包している。そして、外見の「誠実さ」に反して多くの悲劇を生み出す。パウロが、「文字は殺す」(第二コリント3,6)と言ったのはこのことである。

このように、「十戒」を原理主義的に理解すると致命的な矛盾に陥る。この道は、避けなければならない。しかし、他方では十戒を無視することも許されない。

ブッシュ大統領や米軍の指導者たち、さらには、これに圧倒的な支持を与えるアメリカの国民の多くはキリスト教徒で、十戒に「殺すな」という戒めがあること位は知っている筈だが、「悪い奴は殺せ」と叫ぶことになんの躊躇いもないように見える。事実上、「十戒」は無視されていると言わざるを得ない。

恐らく、「殺すな」という戒めは個人と個人の間では通用する規範だとしても、現実の複雑な政治状況の中では妥当しない、という考えなのだろう。それに加えて、「理想と現実」というあの有名な二元論が幅を利かせている。だから、「悪い奴は殺せ」という結論に直ぐ結びつくのだろう。これは今に始まったことではない。

しかし、私は言いたい。「十戒」に示されているような生き方を無視する者は、必ずその報いを受ける。私が言うのは、「神の裁き」という意味ではない。むろん、それもあるが、むしろ「自業自得」に近い。天に向かって唾する者には、その唾が降りかかる。だから、「十戒」を原理主義的に理解する頑迷さは避けなければならないが、それを「無視する」ことも許されない。――では、その間の道は、どこにあるのか。

ここで、イエスの「山上の説教」が意味を持ってくるであろう。彼は、自分がこの世に生まれて来たのは「律法を廃止するためではなく、完成するため」(マタイ5,17)だと言い、その「一点一画も消え去ることはない」(十八節)と断言した。律法をいささかも「無視」したりはせず、本当に重んじたのである。

しかし、それは十戒の条文に囚われる「原理主義」ではなかった。彼はマタイ福音書5章で、いくつかの戒めを新しく解釈し直す。しかも、「神への愛」と「隣人への愛」という十戒の根本精神によって解釈する (マタイ 22,37-40)。これこそ、人間を憎しみと報復の悪循環から真に解放する唯一の道ではないか。そして、それは 「わたしは主、…あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という十戒の序言が潜在的に持っている深い意味に他ならない。


 
 

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