「知識と愛」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

I

私たちは、たくさんの知識を所有する時代に生きています。核エネルギーに関する知識、情報伝達に関する知識、遺伝子操作に関する知識、そして宇宙開発に関する知識などが、すぐに思い浮かびます。これらはすべて、先端的な技術と結びついた知識です。大容量のコンピューターやインターネットは、私たちが所有し利用する膨大な知識の象徴的存在です。これらの知識は技術と結びついて、私たちの行動能力を飛躍的に高めることに役立っています。そして私たちは、そうした技術的な知の恩恵を受けて、あるいは好むと好まざるとに拘らず、そうした環境の中で生活しています。

しかし昨年の9月11日にアメリカで起こった出来事は、一つの根源的な問いを私たちに突きつけました。「殺すか殺されるかという選択を迫られるより先に、むしろそうした選択を免れて、ともかくも皆が生き延びるためになされるべきことがあるのではないか」という問いです。私たちは既にしばらくの間、この問いにとりくんでいます。村上牧師は新聞紙上で「自爆の論理」についてコメントしておられます。教会の現代聖書研究会や青年会でも、この主題をめぐって討論が続けられています。実際のところ、この問いに対する答えを知らないままでは、どんなにたくさんの知識をもっていても、私たちは――パウロの言葉を借りれば――何かを知っていると自分では思っているが、じつは「知らねばならぬことをまだ知らない」(2節)のかも知れません。

パウロが知識と呼ぶことがらと、私たちを取り囲む技術に結びついた知識は、必ずしも同じものではありません。しかし〈憎しみと暴力に溢れたこの世界で、どこに私たちの生存のチャンスがあるのか〉という視点から、敢えて両者を二重映しにしつつ、パウロの言葉に耳を傾けてみたいと思います。

ここでパウロは「偶像に供えられた肉」について語っています。少し説明しましょう。

 ご存知のようにユダヤ教と、そこから派生したキリスト教は、唯一の神を拝む宗教として、多神教的な古代地中海世界にあって異色の存在でした。ユダヤ教は、常に多神教世界の文化的な圧力に晒されてきました。本国パレスティナにおいても、ヤハウェ神に対する排他的な崇拝の習慣が貫徹されたのは、ようやくバビロン捕囚後のことでした。それ以前にヤハウェ神だけを崇拝するよう要求したのは一部の預言者たちだけで、実際には多くの神々が神殿その他に祭られていました。さらに捕囚後の時代には、多くのユダヤ教徒がパレスティナ本国の外側に、散在のユダヤ人として世界中に散らばって生活していました。彼らにとって異教世界は、家のドアを開ければそこにあったのです。

 ユダヤ教徒にとって、日常生活における異教世界との最大の接点が食べ物、とりわけ食肉の調達でした。私たちはお肉が食べたいときはスーパーマーケットに行きますが、それが宗教と結びついているなんて普通は考えてもみません。しかし古代の市場には、神殿祭儀のお流れの食肉が出回っているのが普通でした。町の肉屋さんですら、動物を殺す前に、羊なり豚なりの額の毛を少しむしりとって火に投げ入れたりすることもあったそうですから――これは神殿の祭司が犠牲獣を祭儀的に屠殺するときの仕草のひとつです――、一般の市場で手に入る肉は、押しなべて異教の神々に関係していると考えておけば間違いありません。そこでユダヤ教徒は、こうした肉を市場で購入して食べることを、自分たちの神への離反行為と見なして厳格に退けたのでした。

 現代の私たちから見れば、馬鹿々々しい昔話かも知れません。しかし何を食べてよいかという問題は、まずは生活習慣ないし文化の問題として、今でもそれなりに重要です。日本ではかつて鯨を食べ、韓国では今でも犬を食べますが、こうした食習慣をおぞましいと感じる外国人が少なくありません。多くの文化で、食習慣は今でも宗教と結びついています。私の近所にイラク人の一家が住んでいます。子供さんたちは、私の子供たちと同じ小学校に通っており、もちろん日本語はペラペラ。彼らのお父さんは日本の大学を卒業したコンピューターの専門家です。それでもこのご一家は、必要に応じて、特別に処理されたお肉、つまり宗教的に問題のない食肉を遠くの店にまで買いに行くのだそうです。

 古代のユダヤ人は、異教の神々に捧げられた肉を食べないことに命を賭けていました。紀元前2世紀に、当時パレスティナを支配していたギリシア系王朝の王からそのことを強制されたときには、かなりの殉教者が出ました。「偶像に供えられた肉」とは、ユダヤ教徒にとっては、日常生活の只中で喉もとに突きつけられた異教文化の圧力の切っ先であったと言えます。

最初期のキリスト教徒は、すべてユダヤ教徒でした。イエスは言うまでもなく、ペトロも十二弟子も、主の兄弟ヤコブも、そしてパウロもバルナバも。しかし暫くすると、異教徒の中からキリスト教徒になる人たちができてきました。パウロがエルサレム会議に連れていったテトスとか、カイザリアでペトロから洗礼を受けたローマ人の百人隊長コルネリウスなどが、その代表的存在です。やがてそこから異邦人伝道が宣教プログラムとして打ち出されてゆきます。これは異教徒が、割礼を受けていったんユダヤ教徒になることなく、ただ洗礼を受けることで直接的にキリスト教徒になれる、という伝道プログラムです。私たち自身がそのようにしてキリスト者になりました。こうして原始キリスト教において、同一の教会共同体の内部に、ユダヤ人と異邦人が混在するという状況が生じました。すると当然ながら、生活習慣の違う者たちが同一の共同体を作る上で、食物に関する清浄規定が直ちに問題になります。

 パウロがよしとした方針は、かつてのユダヤ人は父祖伝来の食事規定を全面的に廃棄する一方で、かつての異教徒たちは神々への崇拝と祭への参加を全面的に無効と見なすことで、共にキリスト教徒として生きるというものでした。これは、どちらの側もかなり大きな犠牲を意味しました。かつてのユダヤ教徒にとっては、そのアイデンティティの最大のしるしを放棄すること、またかつての異教徒にとっては、さまざまな社会的・経済的・政治的な既得権を放棄することを、それは意味したからです。

もっとも多くのユダヤ人キリスト者には、そこまで完全に異邦人のように生きることは無理だったようです。彼らはいわば最大限の譲歩のしるしとして、異邦人キリスト者から、彼らが最低限のユダヤ教的な清浄規定を遵守することを、教会生活を共にするための条件として要求しました(使徒言行録15章の後半の使徒教令を参照)。古代教会を全体として見れば、およそこの線で落ち着いたようです。それでも、食物規定を部分的にであれ無効化することによって、民族の境界を超える宗教としてのキリスト教が形成されていったことは事実です。パウロは、キリスト教徒がそうした方向性を模索していた時期に生きていました。

Ⅳ 

さてパウロは、偶像に関するコリント教会の信徒たちの知識を肯定的に引用しています。「我々は皆、知識を持っている」(1節)という一般的発言もそうですが、とりわけ「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」(4節)という発言が重要です。そもそもパウロは、コリント教会からの書状に答えるかたちで「偶像に供えられた肉」について書いているのですが、その手紙には、「私たちは偶像に供えられた肉を食べる権限をもっている。なぜなら私たちは皆、知識を持っており、この世界に偶像の神など存在せず、唯一の神以外にいかなる神もないことを知っているからである」というような文言があったのかも知れません。何れにせよこの知識は、パウロ自身のそれと一致しています。きっとパウロ自身がそう教えた可能性もあります。

 しかしながらパウロは、知識において「強い」と自負する者たちが、彼らから見れば無知で「弱い」と思われる人々を軽視する傾向にあることをよしとしませんでした。「偶像の神など存在しない」ことが知識としては理解できても、世々代々連綿と崇拝されてきた神々とその強大な力が、今も巨大な神殿に祭られている神々の存在が、単なる幻想であるとは俄かに信じられない人たちがいても不思議ではありません。そのような人々、つまり父祖伝来の神々を棄て、敢えてキリストの父なる神のみに帰依するに至った信徒たちは、これみよがしに偶像に供えられた肉を食べる仲間たちの姿を見て、とても傷ついたのです。パウロは、このような「強い」者たちの示威的な振舞いを、それは傲慢で愛のない態度だと非難しているのです。そして彼は、むしろ「弱い」者たちのために、偶像に供えられた肉を食べる自由を敢えて放棄するよう勧めています。

V

ここには、偶像崇拝の問題をめぐる一つの大切な洞察があると思います。旧約聖書における偶像の禁止は、端的に言って、神のみを神とするようにという命令の裏側、つまり神以外のものを絶対化してはならないことを教えています。したがって偶像崇拝とは、生きて働く真の神の現実に代えて、神ならぬもの、例えば人間の理想を絶対化すること、つまり人が自分を神とすることに他なりません。偶像崇拝の禁止は、単に神の像を刻なければそれでよいというものでありません。それはむしろ、人の生き方の根幹に関わる問題です。

 アメリカ軍によるアフガン爆撃により現在は崩壊したタリバン政権は、かつてバーミアンの巨大石仏を爆破し、その行為を一神教的な信仰によって正当化しました。しかしこの行為は、実際のところ、自らの理想を絶対化し、その実行能力を世界に誇示するためになされた傲慢な破壊行為に他なりませんでした。ニューヨークの世界貿易センタービルに対する、おそらくはアルカイーダによる破壊的テロ行為も、そして米国によるアフガン攻撃も、つまりテロリズムもアンチ・テロリズムも、それぞれが自分の知識と理想を絶対化し、他者を力でねじ伏せて、その理想の前に跪かせようとする限りにおいて、ともに偶像崇拝の誤りから自由でない可能性があります。

パウロが6節で自由に再現する信仰告白のように響く一文は、そうした偶像礼拝の錯誤を避けるために重要な洞察を含んでいます。つまり唯一の「父」なる神は、万物の創造者であると同時に、万物が「帰ってゆく」目標点でもあり、他方で唯一の「主」なるイエス・キリストは、彼を通して万物が創造され、キリスト者もまた彼を通して救いに預かる、そのような存在だという洞察です。つまり人間は、キリスト者を含めて、第一義的には神の計画や行為の対象でこそあれ、その代理執行機関ではないのです。

いかにして自らを神とする偶像崇拝の誘惑に抵抗し、憎悪と暴力がモノを言うこの世界で、私たちそして私たちの子供たちは、生き延びてゆくことができるでしょうか。そのための小さなヒントが3節にあるように思われます。「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」。この文は、人間の行為が知ることでなく、愛することと言われている点で、また知る主体が人間でなく神である点で新しい視点を含んでいます。

 日常生活の中でも、いろいろなことが上手くいかないとき、私が愛している人、信頼し頼りにしている人から私が知られていること、またそのことを自覚することが大切です。私が子供の頃、何か意に添わないことでもあったのでしょうか、ときどき家に帰るのが嫌になって、田んぼの真中に積み上げられた藁の山の上に座ったり、山際に生えている木に登って枝に腰掛けたりしたままに、日が暮れて家に帰れなくなったことが何度かあります。しかしその度に、とりわけ父や祖父が私の居場所をすばやく察知して私を発見しました。私は連れられて、ちゃんと家に帰ったのです。どうして私の居場所が分かったのでしょう。不思議なことです。何れにせよ幼い私は、こんな具合に幾つかの小さな危機を生き延びたのだと思います。

神を愛する者たち、神に信頼する者たちも、基本的に同じことなのではないでしょうか。そのような者たちが互いに建設的に振舞うための基礎は、私が信頼する神から私は知られている、という確信以外にあり得ないのではないでしょうか。自分の力だけが頼りであるかのように考えられているこの世界で、神に信頼することを知る者はいかに幸いなことでしょう。私たちは、ここにこそ私たちの生存のチャンスがあることを、日々の生活の中で証ししてゆくべきであるし、またそうすることが赦されていると思います。


 
 

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