命の彼方

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「命の彼方」

廣石 望
エレミヤ書18,1-17;

I

 現代社会では、〈命ほど大切なものはない〉という考え方と、〈死ほど魅力的なものはない〉という考え方が並存しています。子どもや家族や高齢者あるいは貧困者や外国人など、弱い立場の人々を守ることが大切だという理解がある一方で、他者に対する生殺与奪の権を握ることへの大きな誘惑や、敵への憎悪を男らしさや生命力の発露と見なす、抜きがたい傾向があります。

 先週の日曜日、私たちの友人である後藤健二さんが、友人の湯川遥菜さんに続いて「イスラム国」というテロリスト集団によって処刑されたというニュースが飛び込んできて、私たちは大きな衝撃を受けました。このグループは残忍さを売りにしているようです。他方で「必ず罪を償わせる」という首相発言も、海外における軍事力使用を容認しようとする現在の政府の方向性から見て、威嚇や暴力を肯定しているように感じられます。

 イエスにとって命と死、とくに暴力と命の彼方とは何だったのでしょうか。

II

 その前に、キリスト教が誕生した時代のローマ帝国に存在した〈死への陶酔〉を演出する制度についてお話しします。円形劇場で行われた死刑囚を野獣と戦わせる獣刑、とりわけ同じ場所で行われた剣闘士の試合は、ローマ的な国家イデオロギー発揚の場でした。

 劇場はもともとギリシア生まれで、悲劇などの演劇を上演するための文化施設でした。しかしローマはそれを改造して、中心に楕円形の「アレーナ」(もとは「砂場」の意)を設置し、観客席は社会階層別に再配列されました。アレーナの地下では帝国各地から集められた猛獣が飼育され、エレベーターで上げ下げができる仕組みになっていました。その代表的存在が都市ローマのコロッセオです(紀元80年に落成)。

 とくに午後に催された剣闘士の試合は、〈死をあざ笑う勇猛さ〉というローマ的な美徳を実演する見世物として、大衆から熱狂的に迎えられたそうです。団体戦や個人戦が審判つきで行われ、競技の最後には敗者がその場で殺されるべきか、あるいは延命が認められるべきかの判断が――観客の合意を受けて――主催者である皇帝や属州総督によって下されました。

 一騎打ちのクライマックスでは、観客が「殺せ、打ちかかれ、焼き殺せ。なぜあいつは素直に殺されないんだ。なぜあいつは一撃で敵の息の根を止めないんだ。なぜあいつは感動に溢れて死なないんだ!」と声援(?)を送ったと伝えられています(セネカ『書簡』より)。

 あるいは哲学者キケローは、哲学的訓練を剣闘士の精神になぞらえて、こう言います。

多少なりとも立派な剣闘士の誰が、かつてため息をついたり、弱気を見せたりしたことがあろうか。立っているとき、あるいは倒れるときですら、誰がかつてぶざまな様子を見せたことがあるか。倒れたとき、そして首を差し出すよう命じられたときに、首をすぼめるようなことをした者があるか。訓練、学習、習慣により、人はかくも多くのことを達成できるのである。(『トゥスクルム荘対談集』より)

III

 これに対してイエスの教えは、円形劇場での剣闘士の試合のような様式化された〈死の礼賛〉とはまったく異なります。むしろ日常世界における剥き出しの暴力を、それを避けようとしても避けることのできない弱者の視点から見据えています。彼は言います、

私の友である君たちに言う。君たちは体を殺して、そしてその後に、それ以上のことは何もできない者たちを恐れるな。誰を恐れるべきか、君たちに示そう。殺した後にゲヘナに投げ入れる権能をもつ者を、君たちは恐れよ。(4-5節参照)

 「恐れるな」という勧めは、恐怖の感情を前提しています。その上で、暴力への恐怖、命を取られることへの恐怖をどう克服するかが問われています。発言のポイントは「暴行者」と「神」の区別です。すなわち暴行者は体を殺す以上のことはできないが、神は人をゲヘナに投げ入れることができる。マタイ福音書の並行伝承では、そのことが次のように言われています。

私の友である君たちに言う。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ10,28)

 暴行者よりもはるかに強い存在として神が想定され、しかもその神が死の只中にあってもイエスに従う者たちを守ると言われます。すなわち

五羽の雀は2アサリオンで売られるではないか。その一羽もまた、神の前で忘れられたのではない。そればかりか君たちの頭の髪の毛も、すべて数えられている。君たちは恐れるな。君たちはたくさんの雀たちより優れている。(6-7節参照)

 これは、ひとつの心理的操作と見ることが可能です。攻撃の「主体」が人間の迫害者から、人間を地獄に叩き落とすという真の攻撃力を備えた神へと置き換えられています。そして、この神がイエスに従う者たちを守ります。外目にはちっとも守られていないのですが、人の力が及ばない神の領域が「命の彼方」に確保されています。

IV

 さらにイエスは言います、

君たちに言う。人間たちの前で私を告白する者は皆、人の子もまた神の天使たちの前でその人を告白するだろう。しかし、人間たちの前で私を否む者は、神の天使たちの前でも否まれるだろう。(8-9節参照)

 謎めいた発言ですが、「人の子」という表現は、イエスが生まれる150年ほど前の宗教迫害の時代、当時の諸世界帝国を「獣」と見なし、それとは対照的な「人間的」支配をイスラエル民族がやがて確立するという夢を表現するために使われました(ダニエル書7,13参照)。つまり〈神に選ばれたイスラエルの少数者〉という集合人格的な意味です。

 それがイエスの言葉に至ると、「人の子」がイエス一人の人格と二重写しにされています。イエスと共に真の支配、神の王国が始まった。だからイエスを受け入れる人は最後の審判でも受け入れられ、イエスを拒絶する人は拒否される。

 暴力を受ける者にとってこの言葉は、何を意味するでしょうか。イエスを告白する私に対する暴力はイエスに対する否定であり、私への暴力は同時にイエスにも向けられていて、最終的にはイエスがこれを受けとめる、という含みだと思います。じっさいイエスは暴力の犠牲になって死にました。

 こうして今度は――先の言葉とは逆に――攻撃の「対象」ないし受け手が私からイエスに移っています。そしてこのイエスは、真の支配者なのです。だから、この預言者的な聖なる霊に満たされたメッセージを拒絶する者には、もはや赦しは期待できません。

人の子に向かって言葉を言う者は皆、赦されるであろう。
しかし聖なる霊に向かって冒涜する者は赦されないだろう。(10節参照)

V

 最後にイエスは、こう言います。

人々が君たちを会堂や公権力や命令権者のもとに突き出すときは、どのように、また何を弁明し、また何を言おうかと思い悩むな。聖なる霊が、君たちにそのとき言うべきことを教えるだろうから。(11-12節参照)

どうやらギリシア・ローマ世界で、最初期キリスト教徒がまだ「少数派」であった時代の状況が前提されているようです。「会堂」の言及は、キリスト教がユダヤ教から分離しつつある段階を、「公権力」はギリシア・ローマ世界の都市行政局を、また「命令権者」はローマ帝国を示唆しているように感じられます。

この発言は全体として、公的権力に対する予防的な防御はしなくていいという意味だと思います。真の攻撃主体が――暴力をふるう人間ではなく――神であり、同時に攻撃の真の受け手が――私ではなく――十字架の死を死んで復活したイエスであるなら、私はすでに暴力の縄目から解放されています。

 それでも社会のマジョリティーとなった後のキリスト教が、「異教徒」という外部とりわけユダヤ教徒とイスラム教徒に対して、また「異端」ないし「魔女」という内部の異分子に対して、「正義の戦争」という理論を開発したことを私たちは忘れるわけにはいきません。

VI

 いくつかの問いが浮かんできます。

 「命の彼方」は本当にあるのでしょうか。私たちは〈死んだら終わり〉と考えがちです。それでも世界中の宗教が、命の彼方について語っています。東日本大震災より後、「死者は私たちと共に生きている」という人は少なくありません。キリスト教は〈虐殺されたイエスは神の命を生きていて、私たちを死の中にあっても守る〉と信じる宗教です。だから生きているときも、究極的には神に命を預けて生きるのです。

 では、神を最強の復讐者と考えることは本当に適切なのでしょうか。ぎりぎりの状況で脅迫者に魂までも奪われないために、〈世の終わりに神がその人を罰する〉と信じることはありうると思います。少なくともイエスに従った人たちは、特別に攻撃衝動の減退した人々ではありませんでした。「敵を愛せよ」という教えを生きた人々は、敵への憎悪という大きなエネルギーを逆方向に反転させることを学んだ人々です。つまりこの発想の特徴は、「やられたらやり返す」という反撃をしない点にあります。暴力は私がスポンジのように吸収し、後は神に任せることで、憎悪と報復の連鎖をストップさせるのです。

 自己防御の放棄はよいことなのでしょうか。キリスト教はマゾヒズムとは無縁です。そして抑止力の増強が、しばしば軍拡競争の悪循環を招くこと、軍隊というものがじっさいの戦闘では一般住民を盾にしてでも自分たちを守ろうとすることを、私たちは歴史から知っています。他方で自発的に防御を放棄することは、場合によっては、相手の攻撃衝動を殺ぐ効果を発揮することもあります。

 現在の私たちの政府には、紛争や貧困によって壊れた社会で必死に生きようとする子どもたちや家族について良心的に報道してきたジャーナリストの死を、海外に軍隊を派遣するために政治的に利用しているふしがあります。いったいどうすれば、この〈死の礼賛〉から逃れることができるでしょうか。

 大切なのは死を深く悲しむこと、神に信頼すること、そして――暴力と威嚇で弱い人々を守ることなど不可能であることを胸に刻んで――信頼と平和に賭けてみる勇気を養うことだと思います。「本当の人間は軽蔑の対象でもなければ、神に祭り上げるための対象でもなく、神の愛の対象だ」とはディートリヒ・ボンヘッファーの言葉です。

 「人を恐れるな」とは、人に信頼することを諦めるなという意味でもあると思います。


 
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