今夜、お前の命は取り上げられる

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「今夜、お前の命は取り上げられる」

秋葉 正二
コヘレトの言葉8,16-17;

 きょうのテキストは寿命の話です。イエスさまが譬え話で人間の寿命のことについて触れられたのです。私たち人間の命はこの世に存在する期間が決まっていますが、それにもかかわらず人間は昔から不老長寿を求めて様々な努力をしてきました。遺伝子の解明が進み、クローン技術が登場した現代でも、寿命が永遠に続くとは誰も申しません。素粒子や放射性元素・分子などもある特定の状態に存在する時間が決まっているようですから、すべての物質には寿命がある、ということでしょう。使徒パウロは信仰の視点から、『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです』(2コリント4,18)と言っていることを思い出します。

 テキストは、群衆の一人がイエスさまに兄弟間の遺産分けの調停を依頼することから始まっています。民数記や申命記には遺産相続をめぐる争いの記事がありますから、その昔モーセや長老たちもその調停には苦労したことでしょう。イエスさまもラビと呼ばれる存在ですから、民の一人が調停を願い出たのだと思われます。イエスさまはこれに直接お答えにはなりませんでした。『誰が私をあなた方の裁判官や調停人に任命したのか』と言われて、貪欲に用心しなさいと注意し、人の命と財産との関わりについて触れてから譬え話をされました。

 これが16節以下に記されています。譬え話そのものに難しい点は何もありません。ある金持ちの畑が豊作で、彼は作物を蓄える場所に困りました。そこでもっと大きな倉に建て替えて穀物や財産をそこにしまい込もうと考えます。その計画に彼は満足して自分に言い聞かせています。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。』私たちは貯え場所に困るほど財産を持っていませんから、こうした金持ちの気持ちが分からない気もするのですが、それでもある程度はその気持ちを想像できます。現代の私たちならば、さあ老後の蓄えも充分にできた、わずかな年金などに心配しないで、残された日々を好きなことに費やして楽しむぞ~、といったところでしょうか。大きな倉は、私たちにあてはめると銀行か、証券会社でしょうか。もしそうならば、この金持ちと私たちの間には通じ合うところがあります。

 ところで、ルカ福音書の特徴の一つに、イエスさまの話に対して、聞き手がきちんと区別されるということがあります。ルカは譬え話を聞く人を、意識的に分類したのです。このテキストでは、聞き手は弟子でもなければファリサイ人や律法学者でもなく、群衆の一人です。この群衆が願い出たことが遺産の分配の話ですから、そこには一般大衆の金銭に対する欲深さが取り上げられていると言ってもいいでしょう。聞き手が弟子たちやファリサイ人・律法学者でなかったという理由は、おそらく彼らの場合は金銭欲よりは名誉欲の方が高かったからかも知れません。また群衆という十把一絡げ的な表現は、ルカが身を置いていたキリスト教会の立場にあてはめてみると、未信者ということになるのかも知れません。紀元1世紀の教会は信仰的に純粋で、燃えていた教会ですから、ルカの頭の中にはキリスト者の中には遺産相続をめぐって争うような欲深い人はいない、という思いがあったことも考えられます。少なくともキリスト者には、そんな人間にはなって欲しくないという願いはあったでしょう。2千年後のキリスト者である私たちには、ちょっと頭が痛い問題です。

 私たちはキリスト者として欲深くなく、金銭欲などにも左右されない立派な存在では決してない、ということをわきまえているつもりです。だからこそ頭が痛くなります。このイエスさまの譬え話を未信者の群集向けの話ということではなく、キリスト者の自分に語られていることとして受け留めたいと思います。実際私たちに遺産分配の話が出るとするならば、少しでも自分の取り分を増やそうと兄弟姉妹間で争うかもしれないのです。何と言いますか、自分にもあてはめてみるのですが、キリスト者というのは、自分に信仰があるということで、どこかねじれているような気がします。世の人々と変わらない欲深い存在だということを認めたくない、そういう意識です。そんなことを考え合わせながら譬え話に戻ります。テキストの「ある金持ち」と現代の私たちには共通点があるという意味のことを申し上げましたが、この金持ちはとんでもない悪い奴ということではないのです。

 ただ、イエスさまの指摘にも込められていると思いますが、この金持ちは自分のことしか考えていません。これから自分の財産をどうするか、自分はどう生きるか、そのことにしか頭が働いていません。大きな倉を建てる目的も、自分がこれから何不自由なく楽しく暮らすためです。しかし紀元1世紀のユダヤの現実は、ローマ帝国に高い税を巻き上げられ、農民のほとんどはぼろぼろになって日々の生活に破綻を来たしていました。倉を建てられる富裕層はほんの一握りです。ユダヤだけではありません。ローマ支配下の地中海周辺世界では、富はほとんどローマに吸い上げられて民衆は貧乏生活でした。ローマ帝国の地中海農業は既に崩壊していた状態です。より大きな倉を建てられる金持ちならば、そうした辛酸をなめている民衆のことを少しは思いやるべきでした。でもテキストの金持ちは、『さあ、食べたり飲んだりして楽しめ』と自分のこれからのことしかイメージできなかったのです。

 一つには、イエスさまはこの自分だけという発想の限界に触れられたのでした。イエスさまが生きられたローマ帝国支配下の世界とは、今流に言えば「格差社会」の典型です。今私たちが生きている社会の状況も、大企業だけがお金を貯め込み、お金のある投資家だけが儲け、民衆はちっとも実入りが増えないので消費を控えるしかない、という格差社会です。若者の3割は正規の仕事にもつけません。この格差はこれからもっと進んで行くという指摘もあります。私たちは自分のことしか考えられないのでしょうか。政治を変えて何とかしようということも考えなくてはいけないのですが、人間の政治は万能薬ではありません。新しい政治を始めたとしても、その手段である政治そのものによって、また新たな悪が社会に持ち込まれるようになります。これは人間の持つ限界というものでしょう。

 とにかくこの譬え話では、少なくともこの金持ちは自分のことだけしか頭が回らなかったのです。もっと注意深く周りを見渡せば、貧乏で困っている人たちが沢山いたはずなのにです。イエスさまはこの金持ちの生き方に対し、一言ピシッと「NO」と言われました。『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』。これは人間存在に対する決定的なひと言です。私たち人間は、常に神さまから 『今夜、お前の命は取り上げられる』という声が響いていることを忘れてはなりません。イエスさまは他の箇所で、ある大金持に対して、『あなたの持っている物をことごとく貧しい人に施しなさい』 とおっしゃっています。『そうすれば、天に富を積むことになる』と言われるのです。「天に富を積む」ための手段は、自分の富を自分だけのものとしないで、それを持たない隣り人のために差し出すことでしょう。自分だけのために蓄えた富は一見豊かに見えるけれども、少しも豊かではないと指摘しておられるのです。神さまの前に立つ時、自分の貯えだと思っていたものは無になってしまいます。

 神さまの前に立っても自分がみじめにならないで、祝福に満ちた状態でいられる道、それが私たち人間の終わりの日に対する備えというものです。『今夜、お前の命は取り上げられる』と言われてももう動揺しない、自分の生涯の終わりを迎えても益々喜んで生きることができる生き方、それこそがイエス・キリストが私たちに示してくださる生き方です。端的に言えば、私たちの主イエス・キリストの生き方そのものがその見本なのです。私たちキリスト者はキリストの後に続いて、自由な人間として生きなければなりません。イエスさまが自らを犠牲にして人のために生き抜かれたのですから、私たちも人のために生きなくてはなりません。私の生き方を見てください、と言えるようになりたいと、心から願うものです。


 
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