I
およそこの世界に、正義よりもっとよいものが何かあるでしょうか。人の振舞いは、それが義しいものであるなら、それ以上に何を望みうるでしょうか。
私たちの労働は、しばしば正当に評価されないではありませんか。金やコネのある人が、地道に努力している人よりも、高い評価を受けることや社会的に優遇されることが多過ぎるように思います。怠け者が要領よく立ち回り、真面目で気の弱い人が損な役回りを引き受けるのは、残念ながら世の常です。官庁や銀行、原子力施設、食品企業、学校、医療などの大きな権益がからむ組織では、不正行為を内部から告発する人に対して、解雇その他のさまざまな圧力がかけられます。例えばイタリアでは、「イスラム社会では文明が何世紀も前にストップしたままだ」という発言で物議をかもしたシルヴィオ・ベルルスコーニ首相の命により、マフィア根絶の急先鋒を走ってきた国民的英雄ともいうべき辣腕検事が、突然解任されて、僻地に左遷されてしまいました。またこの世界には、信じられないほどの差別があります。私たちの国には、しばらく前まで、(元)ハンセン病患者に対して甚大な人権侵害を行うための法律が存在しました。さらに不景気と不良債権のツケは、やはり弱い人々を最初に直撃するのではないでしょうか。例えば、私たちの国の政府は、日本育英会の奨学金制度を全面的に廃止して、これを民間銀行の教育ローンに置き換えようとしています。しかし銀行は、親がお金を持っていない学生に金を貸したりしないでしょう。私たちは皆、多かれ少なかれ、義に飢え渇いています。
Ⅱ
本日のテキストである「葡萄園の労働者」の譬えは、正義について、とても興味深い視点を含んでいると思います。
この物語の舞台は、農村の葡萄園です。葡萄園の主人は自作農ですが、彼が市場で雇い入れる日雇い労働者たちは土地を失った没落農民ないし流民のように見えます。完全失業率が過去最高を記録している私たちの社会にも、フリーターと呼ばれる人たちがいますね。最近ではこうした若者向けに、携帯電話を通して、キャンペーンやイベントなどの短期集中型のアルバイト求人広告が大量に流されているそうです。
私たちの物語で先ず興味深いのは、時間の図式です。葡萄園の主人は、朝6時から夕方5時までの11時間、最後を除いてきっちり3時間インターバルで計5回、市場に出向いて労働者を雇い入れています。つまり12時間フルに働いた者から、1時間しか働かなかった者に至るまで、労働時間に差があることがはっきり分かります。しかも朝6時に雇われた労働者にだけ、1日1デナリという労働契約が結ばれています。それ以降は「ふさわしい賃金を払ってやろう」(4節)と曖昧になり、午後5時の労働者に至っては「あなたたちも葡萄園に行きなさい」(7節)と言われるだけで、金の話は一切ありません。こういう雇用ないし就労の仕方は、いつの時代にもトラブルのもとです。何れにせよ最後の労働者は、運良く賃金をもらえたとしてもほんの僅かだという印象が浮かんできます。
次に興味深いのは、言うまでもなく労働者の全員が1デナリの賃金を受け取ったことです。しかも支払方法が一風変わっています。支払いを1時間労働者から開始することで、長時間働いた者たちが支払額を目撃できるように演出されているのです。1時間労働者が1日分の労賃を貰ったことは、12時間労働者にとって挑発となります。彼らはまんまと挑発に引っかかり、自分たちは「もっと多くもらえるだろう」(10節)とぬか喜びします。しかしこの期待は裏切られ、掌には何だか小さく見える1デナリ銀貨が残りました。がっかりするやら、腹が立つやら。彼らの気持ちはよく分かります。大学の講義でこの譬えをとりあげると、半分くらいの学生さんたちが、この主人のやり方に猛反発します。彼女たち・彼らもまた、とりわけ学校生活の中で、正義が繰り返し裏切られるという苦い経験をしてきたからです。〈働きの多い少ないに応じて、報いにも差がつけられて然るべきである〉という主張は、私たち自身の正義の感覚に一致しています。
しかし、ではこの主人のしたことは不正義であったのかと問われると、話は微妙になります。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではないか」(13節)。契約を履行するという正義の要求は満たされています。さらに主人は言います、「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」(15節前半)。ここでは自己の所有に対する自由裁量権の正義が主張されています。不当な賃金支払いの罪で葡萄園の主人を裁判所に訴えても、おそらく門前払いに終わるでしょう。
よくよく考えてみれば、12時間労働者が怒ったのは、主人が不正行為を行ったからではありません。1時間しか働かなかった者たちが1デナリ貰うのを見たとき、彼らは、むしろ喜んだのです。彼らが怒ったのは、もっと貰えるという期待が裏切られたから、主人の気前よさが自分たちには及ばなかったからでした。
では、どうして主人は短時間労働者にも一日分の賃金を支払ったのでしょうか。彼らとて、家族を養い生きていくための最低限の生活保障を受ける権利があるはずだ、という意見があります。この考え方自体は間違っていません。しかし主人は、こう言います、「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(14節後半)。「支払う」と訳されているのは、ギリシア語では「与える」という語です。つまり主人は、受ける者の必要性ではなく、「私はプレゼントしたいのだ」という与える者の意思だけが、そうした支払いの根拠だと言っているのです。少し視点を換えて言えば、この主人は、本来双方の合意と履行に基づくべき〈労働関係〉を、与える側の一方的な善意に基づく〈贈与関係〉のモードで理解しているふしがあります。
〈労働関係〉では、なされた労働に対して報酬を支払う義務があります。一種のギブ・アンド・テイクの関係です。これに対して〈贈与関係〉では、何かに強いられてプレゼントがなされるわけではなく、与える者の意志が基本にあります。パウロは、このことをもっとはっきり言っています。
「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものとみなされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマの信徒への手紙4,4-5)。
日雇い労働者とはまるで違う視点で、主人は人々を雇っていたのです。あれは基本的にプレゼント行為だったのですね。だから何度も何度も市場に出かけていったのかも知れません。だからこそ〈労働の大小を報酬の大小に反映させる〉という「分配の正義」の原則を無視できた。12時間労働者とて、〈贈与関係〉を拒絶する理由はありません。ただ労働時間の差があまりに歴然としているため、すべてを〈労働関係〉の視点から見てしまった、つまりプレゼントをボーナスだと考えたのです。そして自分たちには基本給だけが支払われたと感じた瞬間、〈労働関係〉の視点から「これは悪平等だ」と噛みついたのです。主人は「不当なプレゼントという非難はないだろう」と応じる。何と巧みな物語でしょう。
すると最後に残る問いは、こうした主人の振舞いは、持てる者の気ままな勝手放題に過ぎないのではないかという疑問です。どうして私にだけは気前よく振舞ってくれないのか、どうして私だけ運が悪いのか。この問いに主人は正面から答えていません。
しかし、この疑問を考えるための手掛かりが、おそらく主人の最後の言葉にあります。「それとも、私の気前のよさを妬むのか」(15節)。この日本語訳はかなりの意訳です。原文をそのまま訳すと、「それともお前の悪しき眼差しは、私が善いからなのか」となります。つまり「お前がそんなにとげとげしい目つきをしているのは、この私の善意が理由だと言いたいのか」と。これは、妬みが正義を求めることの動機であってよいのか、という問いかけに他なりません。この言葉は、法律の整備によっては処理できない、しかし社会正義を実現してゆく上で極めて根源的な問題を指し示しています。妬みに基づいて、「私は損をした」という怒りに基づいて正義を要求する者は、自分が得をした途端に既得権益にしがみつきはしないでしょうか。その結果、構造的に損をする立場に追い込まれた人々は、いつの日か正義の名によって、暴力的な報復行為に出たのではなかったでしょうか。
Ⅲ
およそこの世界に、正義よりもっとよいものが何かあるでしょうか。人の振舞いは、それが義しいものであるなら、それ以上に何を望みうるでしょうか。――しかしイエスの譬えが私たちに教えるように、正義を支えるものは、妬み以外の何かでなければなりません。マルチン・ルーサー・キング牧師の言葉に耳を傾けたいと思います。
暴力の究極の弱点は
破壊しようとする当のものを生み出してしまう
悪循環でしかないことだ。
暴力によってウソつきを殺すことはできても
ウソを殺すことはできないし
真実を確立することもできない。
暴力によって憎しみを抱えた者を殺すことはできても
憎しみを殺すことはできない。
反対に、暴力は憎しみを増大させるだけだ。
そして、その連鎖に終わりはない……
暴力を暴力で返すことは、暴力を増殖し
星のない夜の闇をさらに深めてしまう。
闇に闇を追い払うことはできない。
それができるのは光のみ――
憎しみに憎しみを消し去ることはできない。
それができるのは愛のみ――
(坂本龍一[監修]『非戦』幻冬社、2002年より)
キング牧師が「暴力」と言っているところを、「既得権益/妬みに基づく正義」と言い換えてはどうでしょう。
既得権益/妬みに基づく正義の究極の弱点は
破壊しようとする当のものを生み出してしまう
悪循環でしかないことだ。
既得権益/妬みに基づく正義によってウソつきを殺すことはできても
ウソを殺すことはできないし
真の正義を確立することもできない。
妬みによって妬みを消し去ることはできない。
それができるのは愛のみ――
ルーサー・キングによれば、愛と善意の出来事は、正義という原則の例外事例ではありません。むしろその基礎です。善意こそが、真の正義が育つための苗床なのです。ナザレのイエスの語った譬えが、彼の生涯の全体が、そのことを私たちに指し示しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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