「皇帝のもの、神のもの、イェスのもの」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

教会の暦では2月の13日(灰の水曜日)から受難節に入ります。それから6週間あとの3月24日が受難週(受難節第六主日)、そして3月31日が復活節,イースターへと続いて行きます。降誕節の喜びは、主の受難と復活に繋がっていることが、教会の暦からも良く分かります。福音書にもそのように、主の降誕,受難と復活が一まとめになって語られています。それが最もはっきり表わされている所は、ヨハネ福音書の序論とも言える,ロゴス賛歌の中にあります。「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(4~5節)。しかし言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである(12~13節)。」

先ほどお読みした聖書の個所はマルコ14章から始まる受難物語の前に置かれている、一連の論争物語の一つでありますが、この中にもイエスの受難が秘められています。同時に勝利がこの物語りに示されておりますし、そのようなイエスが私達に与えられた喜び、主の降誕の喜びがこの福音書記者によって伝えられている様子がお分かりになる事でしょう。前回、それは昨年の9月30日の礼拝で、同じマルコ福音書に収められている「権威について」の論争物語(11章27~33節)からお話したときに申し上げたことですが、概して論争物語と呼ばれているテキストは、後代の解釈や編集の手が加えられている中でも、誕生物語や、復活物語などの伝説風の物語よりは遥かに信憑性が高い部類に入るテキストです。今日の「納税問答」と一般に呼ばれている論争物語から,私達はイエスの姿と働き、また、その教えが生き生きと、そのまま現代の私達に伝わって来るのを感じないでしょうか。福音書記者はこれを過去の話ではなく、聞いている全ての人が今、イエスと出合うことの出来る素晴らしい出来事として語っているのです。お分かりの通り、この「納税問答」も大変痛快なお話です。質問者はイエスを高く持ち上げています。敵対者である筈のファリサイ派とヘロデ派の集団がイエスをラビ(先生)と呼んで、最高の敬意を払っているように見えます。更に「あなたは真実な方で、誰をも憚らない方(無視なさらない方)であることを知っています。(なぜならば、あなたは)人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」高く持ち上げるにしても、実に当を得た、イエスへの賞賛、評価として受け取ることの出来る言葉ではないでしょうか。「神の道」を説く人は預言者と呼ばれてきました。神が人間に命じる生き方を、自分の全存在を懸けて語り、行う人、これが預言者でありますし、「神の道」を語る「神の人」とも呼ばれる人物です。イエスをこれ程まで評価していることが、そのまま本当に受け入れられていたのであれば、以下の質問も、もっと、真剣に尋ねられていたでしょう。また、どんな答えであろうと、先生から有難く伺おうとする謙遜な態度があった筈です。しかし、あの、一見イエスへの評価と思える賞賛の言葉は、次の質問によってその本性を表わして行くのです。あの誉め言葉は、実はイエスを罠にかけるために、悪意を込めた、問いかけへと転じて行くのです。「皇帝に税金を納めるのは,律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか(14節)。」ローマに税金を納めるべきであるか、納めてはならないか、これは時代の宗教界を二分する熱い火種であったのです。この問題の結末が、ローマと戦いを起こした、ユダヤ戦争、そして紀元70年のエルサレム陥落につながったことを思えば、イエスがこの問題にどうお答えになるかは、現代の私達にも大いに関心のある問題ではないでしょうか。イエスに質問を投げかけた一団の中で、ファリサイ派はこの問題で真っ二つに分かれておりました。ラビ・ヒレルを指導者とするファリサイ派の1派は自由主義的で、ローマの支配にも寛容な態度をとっておりました。ですから、ローマに税金を納めることは、積極的に支持していないまでも、やむ負えないことと考えておりました。むしろ、日頃、律法に違反し、神に犯してきた罪の故に、ローマの支配を受けるのはやむを得ないことと、人々に教えて来たのです。ユダヤ戦争以後も生き残って活動出来たのはヒレルの流れを汲んだ自由主義的なファリサイ派であったのです。それに対していま一つの勢力はラビ・シャンマイを指導者とする、ユダヤ民族主義的な傾向をもった一団でした。当然ながら、彼らは、ローマ皇帝に税金を納めることは、皇帝にイスラエルの支配を認めることを意味していますから、これに強く反対したのです。この一派に所属したファリサイ人、律法学者は納税反対の論拠を律法から導き出していたのです。それは出エジプト記20章3節に記されている、十戒の第一戒、「あなたは、私のほかに何者をも神としてはならない。」、納税はこれに違反している、としていました。「皇帝に税金を納めることは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」と言う質問をイエスに投げかけたのは、こうした背景があったのです。シャンマイの民族主義的な過激派は後にユダヤ戦争を起こしてエルサレムの滅亡を齎す、熱心党を生み出したグループでした。また、使徒言行録の5章37節に記されているガリラヤのユダによる反乱もこの過激な民族主義集団によるものでした。言行録では「住民登録の時、ガリラヤのユダが立ちあがり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、散りじりにさせられた。」と書かれています。これはローマが税金を取りたてるために行った紀元6年の人口調査に反対して起きた反乱のことを指していて、ローマへの納税がどんなに大きな問題であったのかが良く分かります。こうした背景を踏まえて、この納税問答を仕掛けて来たのは、ファリサイ派とヘロデ派(党)の一行であったと記されています。ヘロデ党とは、余り福音書に出てこないので(3章6節;マタイ22章16節)良く分からない所もあるのですが、ガリラヤの領主であるヘロデを支持する1派でありますから、ローマの支配に協力して、ローマへの納税も支持していたと思われます。普段はファリサイとヘロデの党派が手を結ぶことは考えられないのですが、イエスを無きものにしようとすることでは一致団結できたことが先の聖書から読み取れます。一体ファリサイ派のどちらとヘロデ党は手を組んでイエスの所ににやって来たのでしょうか。自由主義的なヒレルの弟子であったかも知れません。その場合は、ローマに納めることで一致したグループがイエスと合い対します。でも、もし、シャンマイの弟子であったなら、私はこの方がこの論争物語をより面白くさせてくれるように思います。実際、マルコという福音書記者はそう言う皮肉を込めて、編集していて、両派をこの所に登場させたのはマルコであると十分に考えられるからです。ローマに税金を納めろと言うヘロデ党と、納めるなと主張する側を代表するファリサイ派が、イエスの前にやって来たのです。

イエスは彼らの下心を見抜いて言われた。先ほど私は「彼らの悪意」という言葉を使ったのですが、新共同訳では「下心」と言う言葉が使われています。聖書の元の言葉(ギリシャ語)では「偽善(hypokrisis)」、となっていて、かなり強い批判が、語る者の中に秘められています。イエスはこう言われました。「なぜ、私を試そうとするのか。デナリオン銀貨を持ってきて見せなさい。」イエスはデナリオンを1枚も持っていなかったのでしょうか。経済生活を営む上で、持っていなかった、とは考えられません(1デナリオン=1日相当の賃金)。イエスはむしろ人々に注意を促がすために、「持ってきて見せなさい」と言ったのではないでしょうか。彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは誰の肖像と銘であるか」(16節)と言われた。デナリオンの押されていた肖像はテイベリウス皇帝の胸像で、横顔が描かれています。彼はアウグスト皇帝の後、紀元14年から37年までを治めた支配者でした。肖像を囲んで硬貨の周りに彫られていた銘を訳しますと、「皇帝テイベリウス、崇拝すべき神アウグストの子(TIBERIUS CAESAR DIVI AUGUSTI FILIUS AUGUSTUS).」となります。崇拝すべき神アウグストであれば、その子であるテイベリウスも当然、神の子と銘うたれている、と受け止めることが出来るのです。ファリサイ派で民族主義者がローマへの納税は律法に違反している、とする論拠は貨幣に刻まれた銘からも証明付けることができるでしょう。過激派ばかりでなく、ユダヤの一般的な庶民でも、受け入れがたい内容が、毎日使わなければならないお金に書かれていたのです。加えて、昔も今も税金について庶民は出来るだけ少なくあって欲しいと願っていることに変りはありません。(今でも政治家は選挙の前になると減税を唱えて民衆の支持を勝ち取ろうとしています。その反対に、今年のように選挙のない年には増税のチャンスとして狙われています。課税最低限の引き上げ、消費税の値上げ、医療費自己負担の増額などが、いま狙われています。) 納税問答を通して庶民とイエスを引き裂く狙いがファリサイ派とヘロデ党にあったことは明らかな事実です。また、ローマへの納税を拒否するようにイエスが民衆に薦めれば、イエスを捕らえる絶好の口実を支配者は掴んだことになるのです。どちらを、答えてもイエスには不都合が生じます。そういう状況の中で、イエスは実に見事な答えをなさっておられます。イエスは、「これは誰の肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

イエスのこの言葉は良く、「政治は政治に任せ、宗教は宗教に、つまり我々が関わるのは宗教であって政治ではない。」、と理解されています。 「皇帝に、この世の支配者に税金を納めるのは相対的な世界のことであって、それなりに済ませて良いが、神のこと、宗教については絶対的な領域であって、イエスとその信奉者が関わるのは、こちらの方である」。代々木上原教会の前身である上原教会は戦時下に、このような理解をもって、専ら教会の維持に努めていたことを、そして、結果的には戦争に協力していたことを、赤岩栄先生は深く反省して、戦後の教会再建にあたられました。その事を、ご自身の言葉で幾たびか伺っていました。礼拝を始める前に皇居遥拝をしていたのは、上原教会だけではなく、日本の殆どの教会がそうでした。「政治は政治に、宗教は宗教に」、と言う思想は体制に順応する行き方にほかなりません。これでは「税金をローマに納めなさい」、と言ったのも同然ではないでしょうか。つまり、ヒレルの門徒もヘロデの党派もイエスの答えに喜んで、その場を離れて行ったことでしょう。そして、イエスに期待を寄せていた民衆は、イエスから離れて行ってもおかしくありません。だが、「民衆はイエスの答えに驚き入った」と言うのです。その驚きとは何に対してであったのでしょうか。(イエスの納税問答を読むたびに、私は赤岩先生が戦時下に官憲と交わした苦い問答を思い起こします。)

「皇帝のものは皇帝に」と言うイエスの言葉の中には、あのでデナリオンに刻まれた「崇拝すべき神、アウグストの子」という発想に対する痛烈な批判と拒絶が表わされています。同じように、「神のもの」にも批判と拒絶、つまりイエスはこのどちらにも組みしない、独自の立場が表明されていいる、だから民衆は「イエスの答えに驚き入った」のではありませんか。「皇帝のもの」は分かり易いのですが、「神のもの」とは一体、何でしょうか。それは、エルサレムの神殿祭儀を指している、と言うのが至当な見方であると思います。ユダヤの人々はヘロデ大王のあとを受けて治めたアルケラオスが紀元6年に失脚して、ローマ皇帝アウグストから、そして、紀元14年からは、テイベリウスから直接支配を受けることになったのです。そこで人口調査がなされ、人頭税としてローマに直接収める税と、従来から敷かれていた、エルサレムの神殿に収める宗教税があったのです。こちらは収入の十分の一税とも呼ばれていて、しかも、ローマの貨幣ではなくて、ユダヤの貨幣であるシケルに両替して納めなければならなかったのです。「神のも」とはイエスのものとは全く異なる、この世的支配の道具であったのです。それが分かると、納税問答でイエスが切り返された答えと、民衆が驚嘆し、拍手喝采をイエスに向けた理由が良くわかります。

私は説教の題に、「皇帝のもの、神のもの」に加えて「イエスのもの」を書き添えました。あえて、言い換えればイエスはこう仰りたかったのではないでしょうか。「デナリオンに刻まれた人にも、シケルで潤う神殿にも関わり無く、私はあなたがた民衆の側に、今立っている」。

イエスの生涯を跡付けるとそのことが良く分かります。ファリサイ派とヘロデ派が最初に組んでイエスを咎めにやって来た時の様子が、マルコ福音書記者は2章13節から3章6節までのところにまとめて載せています。始めの物語ではイエスが徴税人や罪人と一緒に食事をしているのをファリサイ派の律法学者が咎めにやって来たのです。その中でイエスが語られた名言が2章17節にあります。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しいと自認して民衆の上に立っている人ではなく、罪人と見なされているような人を招くためである。」このあと、断食という宗教儀礼を守らず、安息日に病人を癒したり、安息を守らないイエスとその弟子を咎めるファリサイ派の律法学者に対して、イエスは、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子は安息日の主である。」(2章27節)  また、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか。つまり命を救うことか。悪を行うことか。命を殺すことか。」ファリサイ派はここでヘロデ派と結びついて、どのようにしてイエスを殺そうかと、相談を始めています。

「神のもの」を「教会や特定の宗教や宗派・宗団」と短絡的に結びつけてしまうのが、どんなに誤ったものであるかを、今日の納税問答は教えています。自分達こそは「神のもの」である、とする行き方が、宗教戦争を招き、多くの悲劇を生み出してきたことを、教会も反省しなければなりません。イエスが「皇帝のもの、神のもの」に加えて、胸のなかでは「私(イエス)のもの」があったかもしれません。しかし、イエスご自身がそれを敢えて口に出さなかったのは、深い意味があるように思います。「病人のもの、罪人というレッテルを貼られて生きる事を余儀なくされてきた人のもの」、そのような弱い立場に追いやられている人の側に立つ生き方は、ある組織や団体には固定できない余地を残しています。相手は社会の動きと共に絶えず変って行くものです。イエスは敢えて「私のもの」とは仰らなかった。この生き方を私達は教会という組織を捨てでも、イエスに従っていなねばなりません。これが、和解の道であり、平和を齎す愛の国に繋がるのです。

朝日新聞の朝刊、第1面の下には毎回、「天声人語」と言うコラムがあります。これは、もともと、Vox Dei, Vox Populi と言うラテン語を訳したものです。啓蒙主義の時代には「人語天声」、つまり、人々が集まって合議のもとに一致した意見、すなわち、「人語」を「天の声」にしようとして、今の合議政体や民主主義を表わす標語に使われたものが「民衆の声が神の声」と言う標語でした(=The Asahi Evening News)。Vox Dei, Vox Populi,「天声人語」は、集団の力に押し倒されて行く弱者を擁護し、自分の良心に呼びかけてくる、「神の声」を、民衆のものに広めようと意図する、預言者の伝統に立つ物の見方が「天声人語」であります。それは「人語、天声」に先だって、聖書の中に記された行き方でした。本日とりあげたサムエル記上8章は、民衆が民衆を治める士師と呼ばれた自治の制度に代わって、王政への移行を求める民衆に向かって預言者サムエルが、神の声、良心の声を伝えた有名な個所でした。ここにも天声人語が示されています。そして何よりも、イエスは正にそのような言葉と働きを表わして行かれた方でした。たとい権力に圧殺される危険があっても、弱者の側に立ち、弱者の権利を守り、主張する。十字架は避けられない預言者の宿命でした。

程なくイエスの受難を覚える受難節を迎えるにあたって、私達は「神のもの」ではなく、「イエスのもの」しかもそれはイエスを賛美し、称えるばかりでなく、十字架を担い、良心の声を聞き分け、これを今の時代に証し出来るものでありたいと思います。それこそが、イエス共同体の使命であるからです。
 
 

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