「時は迫っている」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

日本や東南アジアのような湿潤なモンスーン地帯では、草や木は春になると自然に芽を出して、夏に花を咲かせ、秋には実を結び、冬になると枯れる。動物も人間も、このように生まれて来ては、子孫を残して死んで行く。このリズムは、ガムラン音楽のようにいつまでも繰り返される。生きている者と死んでいった者との間には「行ったり来たり」という交流があり、「輪廻転生」の教えも広く支持されている。従ってこの地域では、時間や歴史の考え方も「循環的」だ。はっきりした「始り」も「終わり」もなく、「歴史は繰り返す」。この「突き詰めたところのない」穏かな考え方は、我々の身近な自然の経験と結びついて特に日本人には受け入れ易いし、人生に「優しさ」を求める人々にとっても親しみ易い。一概に否定することはできないだろう。

しかし、聖書の考え方は、それとは対照的だ。初代のキリスト教徒たちは、基本的に後期ユダヤ教の「黙示文学的な」思想の伝統の中で生きていたと言われるが、この思想の最大の特徴は「終末論」であった。これはアジアの穏かな風土の中で生まれた「循環的な」思想とは違って、「時は迫っている」という緊張感に導かれている。

つまり、この世界には神が与えた「始まり」があり、そして神が定めた時に「終わり」が来る。人間は、生まれたその瞬間から、やがて訪れる死に向かって生きるほかはないが(ハイデガー)、同様に、神によって始められた歴史の全体は、好むと好まざるとに関わらず、いわば直線的に終わりに向かって進む、というのが人生の真相だ。

だから、今日という日は二度と来ない。それは「かけがえのない」時である。あたかも「やり直しが利く」かのように呑気に考えてはならない。一回限りのこの生を一日一日どう生きたか。終わりが来た時、我々は神の前でそのことを問われるであろう。これが「終末論的な」考え方・生き方である。このような生き方は厳し過ぎて、我々を縮み上がらせるようにも見えるが、実は我々の人生を充実させるものだ。昔の日本の思想家はこのことを知っていた。「一期一会」

パウロがこの意味で「終末論的に」考え・生きていたことは言うまでもない。しかも彼は、「定められた時は迫っています」(29節)と言う。「終末が切迫している」という意識である。この時の間、人はどのように生きるべきか。

7章は主として「結婚」の問題を扱った個所であるが、彼はこういった人生上の実際問題について自分の考えを語りながら、あたかも通奏低音のように、「終末論的な」生き方の原則を響かせる。今日のテキストは、その典型だ。

「今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」。

これはどういうことであろうか? 結婚生活、人生の悲しみや喜び、物を買ったり所有したりする経済活動など、この世の中のすべての営みは、ここでは「相対化」されているように見える。「この世の有り様は過ぎ去るからです」(31節)という最後の言葉も、そのことを裏書きしているように響く。パウロは、永遠の価値を持つ神の国と比べれば「この世の営みはすべてつまらないものだ」と高を括っているのだろうか?

私にはどうしてもそうは思えない。仮にパウロが悟りきった世捨て人のように「斜に構え」て、「この世の営みには大して意味はない」と高を括るような考えを持っていたとすれば、そもそも三度も命懸けの大旅行に出る筈もなかった。新約聖書の半分の分量を占める彼の手紙を読むと直ぐ分かることだが、彼は結婚生活こそしなかったが、各地を巡って一生懸命にイエス・キリストの福音を語り、教会形成の地道な苦労を味わい、その過程で天幕を作る労働もしたし、人生の深い喜びも、耐え難い苦しみも体験している。彼はそのように、現実的な人生を生き抜いた人であった。

それだけに一層、私は例えば「泣く人は泣かない人のように」という言葉に心を引かれるのである。これは「泣く」ことを否定した言葉でも、超越した言葉でもない。

聖書の中の重要な人物は、皆、悟りすました聖人ではなく、この世の苦しみや悲しみを徹底的に味わって絶望したり、泣いたりした人々であった。モーセも、ダビデも、イザヤやエレミヤといった預言者たちも皆そうである。

イエスは、愛するラザロが死んだ時、涙を流された(ヨハネ 11,35)という。ゲッセマネの園で「この苦い杯を私から取り去って下さい」と祈られた時も、血のような汗と共に涙も流されたであろう。レンブラントは、十字架上のイエスの目に、涙を描いている。パウロも、しばしば泣いたに違いない。

皆さんも、人生のすべてが意味を失ったかのような絶望感に打ちひしがれて泣く時があるだろう。だが、その涙が人生の結論なのではない。終わりはまだ来ていない。終わりは、すべての涙をご存知の神様が来らせる。イザヤ書53章やイエスの十字架の物語が示すように、聖書には「神が人間と苦しみを共にして下さる」という事実の記憶(ジャン・バプテスト・メッツ)が満ち満ちているではないか。その神が、終わりを来らせるのである。この意味で、終末論は「希望の教え」なのだ。

そして、やがて来る終末の時には、「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(ヨハネ黙示録21,3-4)。これが聖書の言う「終末」なのだ。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きもない」という約束! その時が迫っている。この終末から現在を見る! その時こそ、「泣く人は泣かない人のように」というパウロの言葉が真実であることが明らかになるであろう。


 
 

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