「主が来られるときまで忍耐しなさい」(7節)とヤコブは言う。
およそ「忍耐」というものは、「その時が来るまで耐える」という時間的な要素を必ず持っている。今、病気の人は、やがて癒される時が来ると信じて、「その時が来るまで」痛みや苦しみに耐える。今不幸である人は、いつかはこの嘆きも、夜毎流す涙も終わると信じて、「その時が来るまで」耐えるのである。イエスも、「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6,21)と言われた。このように、「その時が来るまでの忍耐」を経験しない人がいるだろうか。そして「その時」とは、聖書によれば「主が来られる時」である!
一昨日、私は池明観氏の講演を聞く機会があった。テーマは「韓国現代史の課題」であった。池明観氏は、現代韓国を代表するすぐれた思想家として知られている。軍事独裁政権に追われるような形で来日して20年近く東京女子大学で教え、学生・教職員たちの絶大な信頼と尊敬をかちえたが、その間、一貫して韓国民主化闘争を支援し、金大中氏の最も信頼する友人でもあった。民主化が成って帰国した後は、翰林大学校大学院で教鞭を執りながら「日本学研究所」の所長として日韓の相互理解を民間レベルで推進している。金大中氏が大統領に就任した後は、「韓日文化交流政策諮問員会」の委員長として大統領の文化面でのブレーンの一人である。
その彼が、「金大中大統領が今何を考えているか」ということを語ったのである。これは「聞きもの」であった。多くのことを教えられたが、中でも、「金大中大統領は三つの恨(ハン)を持っている」、という指摘には感じ入った。
「恨(ハン)」というのは韓国の人々がしばしば口にする言葉である。単純な「恨み」ではない。例えば、水俣で有機水銀による公害が発生した時、これら水俣病患者たちが「怨」という字を大書した旗を掲げて会社に押しかけたが、その「怨」とも微妙に違う。「恨(ハン)」というのは、恨みつらみを長い間人格の深いところで噛みしめた末に昇華させ、一種の「精神的なエネルギー」になったものをいうのである。ヤコブが言う「忍耐」と重なる部分があるのではないか。
さて、「金大中大統領は三つの恨(ハン)を持っている」と池氏は言うが、それは具体的には、第一に日本の植民地支配に対する恨(ハン)、次に解放後韓国内部で始まった軍事独裁政権に対する恨(ハン)、そして、あの苛烈な朝鮮戦争を挟んで55年に及ぶ民族分断の事態に対する恨(ハン)だという。彼はこの三つを、一つ一つ、したたかに味わい、その辛さ、悲しさ、涙をことごとく体験した。何回も投獄され、一度は死刑を宣告された。「恨(ハン)」をいうならば、彼こそはその人である。
だが、それは単なる「復讐の怨念」ではなかった。この「恨(ハン)」は、彼の中で純化され、和解への原動力となった。彼は大統領就任後、一貫して和解を推進する。彼は日本との関係を変えて、いつまでも過去の日本の罪責を追求するようなことはしないと言い、国内の反対を押しきって日本の大衆文化の解禁に踏み切った。国内では、かつて自分を投獄したり、死刑にしたりしようとした軍事独裁政権の責任者たちを赦した。北との関係では、「太陽政策」によって自分の方から「わだかまり」を解くように不断の努力をした。それが今度のような結果を生んだのである。
和解のためには先ず自分が変わらなければならない、と金大中氏は考える。イエスが「山上の説教」の中で教えられたように、相手がどうあろうと、先ず自分が先手を取って和解を推し進めならなければならない。そのためには長い時間がかかる。石を穿つような、たゆまぬ努力が要る。このような生き方は、聖書が言う「忍耐」の現代における実例ではないだろうか。
「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい」(7節後半-8節前半)。
貧しい農夫たちは、後生大事にとっておいた「なけなしの」種を蒔いた後は、どんなに空腹でも、収穫を約束する雨が降るまでは歯を食いしばって我慢する。そのように、あなたがたも忍耐しなさい。
だが、ヤコブはここで、単に「自然の知恵」を説いているのではない。我々は、暑い夏は涼しい秋が来ることを待つ。厳しい冬は、冬眠する動物たちのようにじっと蕾のほころびる春を待つ。確かに、四季の流れの中でこのようにして「時を待つ」ということも、経験が教える知恵である。
しかし、我々が忍耐して待つのは、根本的には「主が来られる時が迫っている」(8節後半)からだ、とヤコブは言う。初代のキリスト者は、終末が切迫していると信じたが、その「終末」とは、「最後の審判」という言葉を連想して我々が感じるような恐怖ではない。終末論というのは、「希望の教え」なのである。神の国が来る。神の真実の支配が来る! 「新しい天と新しい地」(ヨハネ黙示録 21,1-4)が遂に実現する。我々は、その時が来ることを信じるから、預言者たちのように、ヨブのように、「マラナタ!」と祈りながら忍耐するのである。
その際、「不平を」言ってはならない、とヤコブは注意する。イスラエル民族は荒れ野の旅の中で繰り返し不平を洩らし、神の裁きを受けた。それは、神が来らせる将来を、つまり「主が来られる時」を信じなかったからであろう。この不信仰が、我々から忍耐を奪うのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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