最近、説教の個所があちこちに飛ぶので戸惑うという声を聞いた。確かに、一つの文書に集中すれば思想の流れは追い易いだろう。しかし、聖書は旧約・新約合わせて66の文書から成っており、その内容は、ある人の言葉を借りれば、「一つの図書館」のように実に多様である。一つの文書だけにこだわると、この多様性を見失う恐れが出てくるだろう。そう考えて、今は「ローズンゲン」に指定されている個所を参考にして説教テキストを決めている。今日と来週は「ヤコブの手紙」だ。
この手紙は、はっきりしたことは分からないが、ヤコブと呼ばれる人物が、第一世紀末か第二世紀初めに、「離散している12部族の人たち」(1章1節)に宛てて書いたものである。そうは言っても、いわゆる「デイアスポラのユダヤ人」を特に考えている訳ではなく、一般のキリスト者をこう呼んだのであろう、と考えられている。
さて、この手紙には大きな特徴がある。それは、「人は行いによってではなく、ただ信仰によって義とされる」というパウロの「信仰義認」の教えに明らかに対立すると思われる思想がここにはある、ということである。すなわち、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(2章24節)。
マルチン・ルターは、この理由によってヤコブの手紙を「藁の書簡」と呼び、信仰的な価値は低いと言った。これはいささか言い過ぎであろう。注解書によると、ヤコブが「行為」を重要視したのには理由がある。というのは、当時パウロの「信仰義認」の教えが誤解されて、「行為」を無視したり、軽んじたりする傾向が生まれていたからである。それに対する警告としてヤコブはこの手紙を書いたのだ。
先程、「多様性」ということを言ったが、それは、聖書の中に「正反対の主張が雑然と混在する」ということではない。主イエスに対する信仰においては基本的に一致しているが、それを別の角度から、「多様に」見ることも出来るということだ。だから我々は、この手紙からも大切なことを学ぶことが出来るのである。
さて、今日の個所には非常に具体的な例が引かれている。総じてヤコブ書には分かり易い具体例が多く挙げられているが、これはその中でも白眉だ。
「金の指輪をはめた立派な身なりの人」(2節)と、「汚らしい服装の貧しい人」(同)が教会に入ってくる。「立派な身なりの人」は特別席に招かれ、貧しい人は全く席を与えられないか、さもなければ、格下の人間のように「足元に座りなさい」(3節)と言われる。こういう差別は「主イエス・キリストを信じる」(1節)信仰からしてあってはならない、とヤコブは言う。
これに関連して、この夏ベルリンに行った時の経験を話したい。
「国際ボンヘッファー研究会」の開会礼拝は、旧・東ベルリンの中心部にある大聖堂で行われた。周知のように、第一次世界大戦で破れる迄ドイツは軍国主義で鳴らした大帝国であって、この大聖堂はいわば「皇帝の」教会だった。堂々たる丸天井。贅を尽くした金ぴかの装飾。大理石の床。たまに皇帝が礼拝に出席する時は、特別の入り口から入り、皇帝用に特別に作られた廊下の赤い絨毯の上を歩き、金の欄干がついた階段を上って、普段は誰も入れない皇帝の特別室に入る。そこで、階下に座っている一般の人々を見下ろしながら神を礼拝する。「神は我々と共にいる」(Gott mit uns!)という言葉は、皇帝にとっては、「神は皇帝のドイツと共にいる」という意味であった。
3節に、「立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛け下さい』と言う」とあるが、文字通り同じことが行われていたのであり、これはローマ帝国がキリスト教を国教と定めた第四世紀以来、ヨーロッパのどの国でも見られた光景である。そして、主イエスは、こういうことはお認めにならない。
ボンヘッファーは生涯、このように「権力に迎合する」キリスト教を批判していたから、この大聖堂で開会礼拝を捧げるのはいささか場違いと感じたが、あるいは、そのことを思い起こすようにという演出であったのかもしれない。
さて、ベルリンでは逆のケースも体験した。市内中心部にある教会の礼拝に出席した時のことである。入り口の辺りが何やら騒がしいので見ると、一人のみすぼらしい身なりの中年女性が受付の人たちの制止を振り切って入ってくるところであった。最前列に座って何やら大声でわめいている。係の女性が傍に行って、「静かにしなさい」と言うのだが、却って逆効果だ。その内に礼拝が始まる時が来て、牧師が祭壇の前に上った。「どうなるか」と思って注目していると、その牧師は先ず祭壇から降り、件の女性のところへ真っ直ぐ歩いて行き、にこやかに笑いかけて肩を抱き、手を握って「良く来てくれました」と言ったのである。彼女は急に静かになった。
その日は聖餐式があったが、彼女は真っ先に出て行ってパンとぶどう酒を受けた。私の番になって出て行くと、何時の間にか彼女がまた来て傍にいるのである。よほどこの聖餐式が気に入ったらしい。隣りの人が「あなたは一度受けたのだから、もういいのですよ」と説明すると大人しく帰ったが、この経験は、私の心を慰めた。
神が愛しておられる「貧しい人々」を、我々は辱めてはならない。そういうことは、決してあってはならない。ヤコブはこのことを強い言葉で勧めている(5-9節)。初代の教会が直面していた問題と、それを乗り越えるための戦いの一断面がここにはある。ここから、我々も多くのことを学ぶことが出来るだろう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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