先日、教会の門の傍にいた時、偶々通りかかった人が看板の説教題に目を留め、首をかしげた。「お前たちはどうするつもりか」。私は、通行人に謎をかけるためにこの題を書いたのではない。もちろん、「喧嘩を売る」つもりでもない。
いくらか挑戦的に響くこの言葉は、今から2500年も前に預言者エレミヤがユダヤの人々に対して投げかけたもので、現在の我々とは直接の関係はないが、当時のことを調べてみると、現在の日本の状況と余りにも似た点が多くあり、とても「我々とは無関係だ」と言って済まされない気がする。その意味で、「お前たちはどうするつもりか」というこの問いかけは、現在の我々に対しても投げかけられていると言って良い。あの通行人が首をひねったのは、案外、適切な反応だったのである。
エレミヤが預言者として活動していた紀元前7~6世紀頃のユダヤは、大きな危機の中にあった。東の大国バビロンと、南の大国エジプトの脅威に挟まれて国際政治の難しい舵取りを強いられていた上に、北からは騎馬民族スキタイという、これまでの常識の枠を超えた狂暴な民族の襲来の噂があり、人々は滅びの予感に怯えていた。
その中でエレミヤは、社会や政治の問題を根本的に解決するためには、「神の意思に従って生きる」ことがどうしても必要であると繰り返し訴えた。紀元前622年に始まったヨシヤ王の宗教改革に賛同したのも、そのためだ。この改革には「神の意思に従う」真剣さがあると、エレミヤは信じたからである。
ところが、「初心忘るべからず」と戒められているように、良い目的をもって始められた試みが最後まで徹底される例は稀である。ご多分に洩れずこのヨシヤ王の宗教改革も、残念ながら中途半端だった。彼は異教礼拝を禁じ、異教礼拝に堕していた地方聖所を廃してエルサレム神殿に集中するといった制度の改革までは実現したが、それは次第に形骸化し、人々の内面の革新を望んで訴えていたエレミヤは、したたかな失望を味わう。今日の個所の背後にあるのは、そのような事情である。
5章1節に、「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が」とあるが、これはこの預言者の深い失望を示すものだ。
エレミヤは失望の余り、神の怒りについて語る。「どうして、このようなお前を赦せようか。・・・・主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる」(7~9節)。今日の個所(26~31節)も、同じ趣旨だ。改革運動が次第に形骸化するなかで、「網を張り、鳥を捕る者のように、潜んでうかがい、罠を仕掛け、人を捕らえる。籠を鳥で満たすように、彼らは欺き取った物で家を満たす」(26~27)というようなことをやる連中、つまり、自己の利益のためには人を騙すことも平気でやる連中が多数出現する。最も弱い立場にある孤児や貧しい人々が、虐められる。これは、今の日本でも珍しくない。バブル期だけのことではない。「これらのことを、わたしが罰せずにいられようか、と主は言われる」(29)。そして、厳しい問いが投げかけられるのである。「その果てに、お前たちはどうするつもりか」(31節)。
だが、このような激しい批判の言葉は、この民族に対する彼の愛の現われであることを知らねばならない。どれほど、この預言者は彼の民族を愛したことであろう!
4章1節の言葉は、その彼の民族への愛を余す所なく語っている。
正にこの点に、考えるべきことがある。
先週、我々はコリントの信徒への手紙一 13章を読んだ。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない」と言った後で、パウロは「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」と言った。本当の愛とは、こういうことだ。真実の愛は、不義を見逃したり、真実を曲げたり、悪い所には目をつぶって美化する「ひいきの引き倒し」では決してないのである。
最近目に余ることだが、例えば戦争中に日本軍がアジア諸国で行った残虐行為を反省して何か語る人がいると、その人は忽ち集中攻撃を受ける。「そんなに自分の国が嫌いか」と言われる。この傾向は、年毎に強まっている。またもや戦時中のように、「ひいきの引き倒し」、「視野の狭い、独りよがりの国家主義」が幅を利かせ始めた。憂慮に耐えない。
だが、これは見当違いも甚だしい。自分の国が嫌いだからそういうことを言うのではない。むしろ、愛しているのである。自分の国が「本当に正しい国」であってもらいたい。そのことを心から祈るから、かつて犯した罪からもあえて目をそらさず、それと真正面から向き合って乗り越えようとするのである。
ボンヘッファーは、ドイツが「戦争に負ける」ように祈ったという。ヒトラーが始めた理不尽な戦争。近隣諸国の無数の人々に言葉に尽くせぬ苦しみと悲しみを与え、遂には自分たちの愛する故郷さえも破滅に導く戦争。一日も早く、この戦争に負けるように! 不義な戦争の勝利のために祈ることと、一体、どちらが真実の愛だろうか。
エレミヤは自分の民族を愛するが故にこそ、手厳しく批判した。そのためにしばしば暗殺の危機に直面しなければならず、ある時は死刑に処せられそうになる。だが、この批判こそは、彼の愛だったのだ。愛を込めて、彼は問いかける。「その果てに、お前たちはどうするつもりか」(31節)。イエスも、命がけで同じ問いを発したのではなかったか。そしてこれは、現代の日本こそ真剣に受け止めるべき問いであろう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
Who We AreWhat We EelieveWhat We Do
2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.