心の清い人たちは幸いである"

ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、八福の教えの中の”心の清い人たちは幸いである”ということを考えてみました。八福の教えの第六番目は、「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」というものです。私たちの人生の究極の目標は、神とお会いすることだと聖書は教えています。聖書の一番最後の「ヨハネの黙示録」を見ますと、天国で何がなされているかが書かれていますが、そこでは、神とお会いし、天使たちや大勢の人々と共に神を礼拝している、その光景が繰り返し描かれています。 
私たちの人生の究極の目標は、永遠の天国において、生ける神にお会いし、神を礼拝し続けることです。この八福の教えの御言葉には、「神を見る」ということが書かれていますが、「神を見る」とは、神にお会いするということです。では、どんな人が「神を見る」のでしょうか。それは、「心の清い人である」と主イエス・キリストは言ってらっしゃるのです。「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイ5:8)私の友人に、自分は宗教の中でキリスト教が一番好きだけど、自分は罪深い人間なので教会に足を踏み入れる資格がない、と言う人がいます。案外、彼の言葉に代表されるように、教会は清い場所で、そこに来る人も清い生活をしている人、ちゃんとした人でなければならない‥‥そのように思っている人が結構おられるかも知れません。まあ、「教会は心の汚れた人が来る」と言われるよりは良い感じもしますが・・・。(笑) 
しかし、私たちは教会に通えば通うほど、「自分の心は清くない。いや罪に汚れている。醜い心を持った人間だ」と自覚するようになっていきます。そうすると、ますます今日の御言葉が気になります。心の清い人は確かに幸いに違いないが、しかし、それは私ではない。そう思わざるを得なくなるのです。では、「心の清い人」というのはどういう人のことでしょうか? あるいは、そういう人が現実にいるのでしょうか? そもそも、「心が清い」とはどういう心の状態を言うのでしょうか? 
まず、この「清い」という言葉は、汚れていない、清潔であることを意味します。またこの言葉は、「純粋である」という意味があります。混じりけがない、ということです。しかし、そんな純粋な人間などいる筈がありません。では、どういう人が清い人なのでしょう?ヨハネの黙示録の中にある天国の光景の一つで、7章の9節からの部分に、数え切れないほど多くの白い衣を着た人たちが、父なる神と小羊であるイエス・キリストの前に集まり、神と顔を合わせて礼拝をしている様子が描かれています。この大勢の人たちは一体何者か?という質問に対して、天の長老の一人がこう答えました。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。「小羊」とは誰のことでしょうか?‥‥もちろんそれは主イエス・キリストのことです。「血」とは何の血でしょうか?‥‥それは十字架の血のことです。つまり「小羊の血で洗って白くした」というのは、主イエス・キリストの十字架の血で白く清くした、ということ。それで天の神の御座の前に来ることができた、ということです。だから、イエス・キリストを信じ、主イエスの十字架の血潮で清くされ、天国に行くことのできる人は幸いなのだと言われているのです。今日の一言: 十字架の血によって心を清くされよう平安鶴田健次ブログランキングに参加しています。クリックで応援をお願いいたします。
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