キリスト教Q&A 最後の審判とはどんなものですか? (24)
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
*1 最後の審判は、黙示録20:11-15において次のように記されています。この言葉はいい加減に聞くべきものではなく、ここで語られていることの真偽を誰もが一度は真剣になって考えなければならない重要なことです。 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。・・・・・また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:11-15) この御言葉を読めば判るように、最後の審判を免れる者は誰一人としていません。おのおのすべての人が、そのしわざに応じて、さばきを受けることが定まっているのです。 ヘブル人への手紙9章27節には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。私たち人間にとって、これ以上、確かなことはありません。人はみな例外なく百パーセント死にます。それと同時に、百パーセント確かなことは「最後の審判」を受けるということです。 ここで重要なことは、ここでの審判は「救われているか、救われていないか」の審判ではありません。救いは人が死んだその時に決定されています。ですから、ここでの審判は人が生前行った行いを通して、さばきの程度を決定するためのさばきなのです。 その審判についてヨハネが見たことを私たちも見てみたいと思います。12-15節にはどのような基準によってさばきがなされると言われているでしょうか。白い御座の前には幾つかの書物が開かれており、死者たちは一人一人その書物に記されているところに従って裁かれます。いのちの書に登録されていない者はみな火の池に投げ込まれます。 いのちの書に記されている者はこの審判を免れます。御座の前に立つ者たちは、死とハデスから出されて来た人々です。彼らはそれぞれの行いに従い、書物に記された基準によって裁かれます。死者の牢獄となっていた「死とハデス」も火の池の中に投げ込まれます。そしていのちの書に記されていない者も火の池に投げ込まれます。この火の池に入ることを聖書は「第二の死」と呼んでいますが、人間の最後の敵である「死」はここにおいて完全に葬り去られるのです。 この黙示録では、最後の審判がなされる神の座を「大きな白い御座」という言葉で表していますが、この審判の御座には「大きな御座」「白い御座」というイメージがあります。つまり、その御座はこれまでにあった如何なる御座よりも決定的に大きく、天地万物の創造者である神の絶対的権威に基づいてなされる裁きであるということです。そして、その刑罰から逃れることは絶対に出来ないのです。 また「白い御座」のイメージは、他の如何なる裁きの座よりも聖く、一点の曇りもない全き正義の御座だということです。そして、この御座の裁判官は、王の王、主の主であられるイエス・キリストです。「数々の書物が開かれ」ると、そこにはすべての人の行い、また人の目には隠されていたこと、あるいは心の中で犯した罪の秘密までもが完全な形で記録されており、誰もこの裁判官を欺くことは出来ないのです。そして、それらの完全な証拠をもとに、すべての人の魂の運命を定める最終判決が下されるのです。LVJCC牧師:鶴田健次
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