『聖書信仰とその諸問題』への応答8(藤本満師)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

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藤本満先生によるゲスト投稿シリーズの8回目をお送りします。

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8 聖書(新約)が聖書(旧約)を解釈するとき

筆者はジェームズ・ダンに倣って(前掲論文、113)、「釈義」(エクセジーセス)と「解釈」(インタープリテーション)とを分けておきます。

釈義とは、私は聖書の文書をそのオリジナルな意味において、オリジナルな表現、オリジナルの文脈において意味を理解する試みであると考えています。それに対して、解釈とは、便宜的に言えば、そのオリジナルな意味にできるだけ付け加えることも削除することもせずに、解釈者の生きている時代の言葉、考え方、表現の仕方に言い替える試みです。

いわば、「釈義」とは近代聖書学が始まって以来考えられてきた歴史的・文法的手法をもってオリジナルな意味を探し求める努力です。そして「解釈」とは、読者がその時代に理解できる枠組み・表現・考え方を用いてテクストの意味を理解できるように、その意味を引き出し表現することです。釈義の方が技術的で精密な研究の積み重ねで、解釈は時代性・アーティスティックな要素が求められます。

まず初めに、この二つを分けて考えることは、キリスト者が旧約聖書を読むときに特に大切でしょう。私たちが旧約聖書を旧約聖書としてオリジナルな文脈とセッティングで釈義したとしても、キリスト者である限り、その解釈においては、福音というフィルターでもう一度その意味を篩わなければなりません。そうして現れるのがキリスト者としての解釈です。

新約聖書が旧約聖書を引用するとき

最大の解釈原理は、キリストの到来と共に神の国が開かれ、キリストの十字架と復活によって神の契約はキリストを中心に新しくされたという意識です。それはまさに旧約聖書の約束(エレミヤ31:31-34)の成就という理解です。

見よ。その時代が来る――主のことば――。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。……

ここで「成就」という言葉を私たちが使う意識は明らかです。旧約聖書の約束が成就するとき、古い契約のある部分は放棄され、ある部分はさらに深められます(イエスの山上の説教のように)。そして「成就」であるならば、使徒たちは決して、旧約聖書を否定しているのではなく、むしろその権威を重んじて、今起こっていること、つまり新たに開かれた福音の世界は、旧約聖書の延長線上にあると理解しているのです。旧約聖書の権威を認めているからこそ、今起こっている出来事がまぎれもなく神の出来事であることであると断言しているのです。自分たちが旧約聖書の言葉を退けるとき、それもまた旧約聖書の権威の裏付けがあってのことでした。それ故にキリスト教は、自分たちこそが「旧約の正式な継承者」であるとの自己理解に立つことができました。

また、御言葉に加えて、聖霊が強く意識されています。ペテロが四つ足の動物を食する幻を見て、異邦人コルネリウスを尋ねたとき、彼はキリストの出来事を詳しく説明し、その後で旧約聖書の権威を引用して述べます。

預言者たちももみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。(使徒10:43)

すると、ペテロの話に耳を傾けているすべての人びとに聖霊が下りました(44節)。ペテロと一緒に来たユダヤ人キリスト者(「割礼を受けている信者」)は、「異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた」(45節)と。

また異邦人にユダヤ教の割礼を課さないことを決定したエルサレム会議では、「聖霊と私たちは……決めました」(使徒15:28)と、旧約聖書の権威ある律法を教会が乗り越える際に、聖霊が働かれたことが強調されています。

パウロもまた、キリスト者に割礼は不要であるだけでなく、それを強いることは「神の恵みを無駄にする」(ガラテヤ2:21)ことになると述べた後、「御霊によって始まった」ことを肉によって完成させることの愚かさを説き、聖霊が新しい時代の幕を上げたことを述べています(ガラテヤ3:2-5)。さらに、新しい契約に仕える者は、文字に仕えるのではなく、御霊に仕える者であると言うのです(Ⅱコリント3:6)。ここで「文字に仕える」とは、「石の上に刻まれた文字」、すなわち旧約聖書の律法を指しています。

解釈手法

注目すべきは、使徒たちが旧約聖書を引用するときの手法です。ここで「解釈」手法、と記しましたように、新約聖書の記者は、旧約聖書を近代聖書学の言う釈義をもってオリジナルな文脈をまず熟考し、明らかにし、それに立脚して新約の時代にあって解釈することはありません。解釈がいきなり来ます。

その解釈手法にあっては、そもそもの旧約の文脈(釈義的理解)を無視するような自由な引用がなされていることは明らかです。いくつか実例を挙げてみましょう。ガラテヤ3:16で、パウロはアブラハムとその子孫に告げられた約束を次のように解釈しています。

約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。

神がアブラハムとその子孫とに結ばれた約束(契約)とは、創世記13:15「 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ」(参照17:8)です。パウロは旧約聖書のこの節を解釈するとき、特に注目したのは「子孫」(直訳は「種」)が旧約聖書で単数形になっているという事実です。もちろん、それは単数形であっても、集合名詞としてイスラエル民族全体を指していることは、当時のラビ解釈にあってもガラテヤの教会の人々にとっても当然のことです。しかしパウロはいきなり、これが単数形であるから、特定の一人、すなわち「キリスト」を指していると大胆に解釈します。

なぜそのように断定的に言えるのでしょうか。それは、パウロはアブラハムの真の子孫が、民族としての子孫ではなく、信仰の子孫であるということを証明しようとしているからです。彼はガラテヤ3:8で、その提言を明確に先に述べます。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

神は、アブラハムに約束を与えた段階で、すでに民族を超えたキリストの福音を考えておられ、したがって、アブラハムの「子孫」とはイスラエル民族ではなく、キリストのことで、このキリストを信じて義と認められるキリスト者もまたアブラハムの子孫に約束の相続者となるというのです。「信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい」(3:7)。

この解釈の根拠に、パウロは3:16の「子孫」という言葉が単数形の集合名詞であるという事実をもって来るわけです。そうなると、聖霊の霊感を受けたパウロが旧約聖書を解釈するときに、テクスト本来の歴史的文法的釈義をおこなっていたのではなく、キリストの福音という視点から大胆に旧約聖書を解釈したことは明らかではないでしょうか。

キリストの福音の視点から、旧約聖書を解釈するということは、子孫のことだけでなく、「土地」にも当てはまります。ジョン・ストットによるガラテヤの注解を引用しておきます。

パウロは約束された「土地」も、それを受け継ぐ「子孫」も、究極的には霊的なものであることであると気がつきました。神の約束は、ただカナンの地をユダヤ人に与えるということだけでなく(旧約)、それを超えてキリストにある信仰者に救いを、すなわち霊的遺産を与えるということでした。The Message of Galatians, The Bible Speaks Todayシリーズ)

筆者があえてストットの言葉を引用したのは、彼はここで、アブラハムの「子孫」をキリスト論的に解釈しただけでなく、「土地」をもキリスト論的に解釈すべきことを明白にしているからです。それは言うまでもなく、パレスチナの政情、すなわち18世紀の終わりから続いたシオニズム運動、(70~80万のアラブ人を追放して実現した)1948年のイスラエル建国、そこから始まるパレスチナ戦争の正当化に、聖書の言葉をもって同調する一部の福音派がいることを意識しているからでしょう。 

パウロが旧約聖書をどのように解釈したのか、もう一つ例を見てみましょう。彼はロマ10:6~10で、申命記30:11~14を引用します。申命記に記されているのは、「神の御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあり」、したがって「それを行うことができる」という教えです。御言葉は不可解な、手の届かない世界にあるのではなく、日常的に私たちのすぐそばにあり、親しむことができます。ところがパウロは、この御言葉とは、「私たちが宣べ伝えている信仰のことば」、すなわちキリストとその福音のことであると言い換え、さらに申命記の「口」「心」を言い替えて、口でイエスを主と告白し、心で復活を信じるなら、救われると説きます。つまり、申命記の言葉を用いていますが、実際は文脈を飛び越えて解釈しています。新約聖書にみる使徒たちの解釈手法は、私たちが一般的に行なう原文に忠実なものではなく、キリストとその福音という文脈に照らした自由なものでした。

パウロは、旧約聖書のオリジナルな文脈と意味を十分に理解していました。しかし、まことに自由に解釈します。ここで問題になるのは、①それが当時のユダヤ教の解釈の手法であった②オリジナルな旧約の文章に、表面的な釈義ではわからない隠れた意味が含まれていて、パウロは聖霊の働きによってそれを引き出した、ということです。私はどちらの可能性もよしとすべきだと思っています。

ただ言えることは、もし①が事実であったとしても、当時の解釈手法で新約の記者が旧約を解釈したことに対して、近代聖書学の視点から文句をつけることは筋違いだということです。つまり、新約聖書の時代にはその時代に即した解釈法があったとしたら、それを新約聖書記者が用いることは、当然、神は許されていることであると。そのようにして旧約聖書の記述も古代オリエントの手法を反映していたのですから。また②については、その隠れた意味がどのようなものであったのかを、キリスト啓示の視点から真理の御霊によって与えられるものだったのでしょう。

私たちの目に明らかであるように、新約聖書が旧約聖書を用いるとき、それは単なる引用ではありません。私たちが旧約聖書を「解釈」しているように、新約聖書の記者たちも旧約のテクストを新約の文脈・手法で、そして聖霊によって「解釈」している。福音の出来事とメッセージに従い、旧約聖書の権威を認める者として解釈している、ということです。

山﨑ランサム和彦氏による「新約聖書の使徒的解釈学――現代福音主義への示唆」(『福音主義神学』45号、2014年)

山﨑ランサム氏は、「歴史的・文法的釈義」が、はたして唯一の正しい聖書解釈法なのか?との問いを提示されます。歴史的・文法的釈義とは、聖書記者がオリジナルの読者に伝達しようと意図した意味を解明する努力です。またそこには「聖書テクストには著書が意図した唯一の意味が内在している」という前提があります。この釈義の方法論が唯一の正しい聖書解釈法であるならば、新約聖書の記者たちも、この方法に基づいて旧約聖書を引用しているはずです。「ところが実際は……」(38頁)と、論が展開していきます。

山﨑ランサム氏は、旧約引用問題の古典的実例であるマタイ2:15を取り上げます。マタイは、ホセア11:1「イエスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから連れ出した」を引用して、ヨセフがマリアと幼子イエスを連れてヘロデの脅威を避けてエジプトに逃れたことを説明しています。しかし、ホセアの言葉をその文脈で解釈すれば、明らかに出エジプトの出来事を指しているのであって、たとえ予型論を持ち出したとしても、出エジプトの出来事がヨセフ家族のエジプト逃亡を説明しているとは考えにくいのが現状ではないでしょうか。いわゆる近代聖書学の歴史的文法的釈義は当てはまらない、と。

そこで氏は、新約聖書が旧約聖書を引用する際の基本的な「解釈学的態度」へと論を進めます。エマオの途上でイエスが弟子たちに聖書を開いてご自身を説明されたように、旧約聖書を「キリスト論的」、あるいは「キリスト中心的」に解釈する手法です。イエスに出会ったあと、ピリポはナタナエルにこう告げます。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました」(ヨハネ1:45)。パウロも同様にダマスコの途上で復活のイエスに出会うことによって、旧約聖書がイエスについて語っていることに気がつきます。それは使徒たちが「旧約聖書を軽視していたというのではなく、彼らのキリスト体験というレンズを通して旧約聖書を読むことによって、初めて旧約聖書が正しく(つまりイエスが教えられたように)解釈できた、ということである」(45頁)と。明らかに使徒たちは歴史的・文法的釈義手法ではなく、聖書をキリストを中心に「解釈して」引用しています。

さらに氏は、ピーター・エンズが提唱した「キリスト目的的解釈」を紹介します。それは、「旧約聖書の全体がキリストの死と復活というクライマックスに向かっているという終末論的前提に立って旧約聖書を解釈していく」手法です。使徒たちが旧約聖書のテクストに見いだした「意味」は時として、旧約聖書の記者たちの意図した「意味」を越えています。それは歴史的・文法的釈義によって言葉が書かれたときの意味を「引き出す」(エクセジーセス)ではなく、その逆の旧約聖書にキリストを「読み込む」(アイセジーセス)の一種であると批判されても仕方がないほど、キリスト論的な解釈が新約聖書の記者によって施されているというわけです。しかしそれを恣意的な読み込みと考える必要はないでしょう。「聖書の究極の著者は神であるとする福音主義的聖書観からするならば、旧約聖書のあるテクストが人間の記者の意図を越えた意味を新約時代に持つように神が意図されたと考えることは決しておかしなことではない」(47頁)とエンズも山﨑ランサム氏も考えます。

また先のジェームズ・ダンは次のように記しています。

権威あると神の言葉として認識された旧約聖書の引用は、……そもそも意図され、理解されていた意味から離れている。権威ある聖書の言葉は、解釈された聖書、つまりそもそもの意味に重要な変更を加えた、新たに展開したか派生したか、そもそもの意味とは異なっている。(202頁)

さてそうなると、歴史的・文法的解釈手法が福音主義解釈学にとって唯一の手法とは言えなくなります。なにしろ使徒たちがそのような手法を用いていないからです。山﨑ランサム氏は福音主義の聖書学者ですから、歴史的・文法的解釈手法を軽視しているのではありません。しかし、福音派の聖書釈義(異なる記述に一貫性を追求し、その一貫性を釈義をもって証明しようとする)に見られる傾向性、あるいは表に出ている現実に一石を投じようとしているのがこの論文です。

さらに山﨑ランサム氏は、使徒たちのように、過去の出来事からキリストにある「今」、聖霊の語る「今」へと、解釈の地平を移すという使徒的解釈的態度に学ぶことも提唱しています。これに対して、使徒の解釈手法は、霊感を受けた彼らだけに許されていることで、今日の読者には許されていないとして、あくまで原著者の原読者に対する一つのメッセージを歴史的・文法的に追求するという姿勢を崩さないとしたら、「聖書」を神の言葉と信じる福音主義に似合った解釈学的態度とは言えないのではないか、と。

もちろん山﨑ランサム氏は「現代の我々の解釈は使徒たちのそれと同等の権威を持っているわけではなく、誤ることもあり得る」(52頁)と理解しています。しかし釈義家にすべての釈義を託し、教会がデボーション的聖書解釈にとどまることは不健全であり、逆に釈義家がその研究成果の故に自らの解釈が唯一正しいものと考えることに問題を感じると言います。歴史的・文法的釈義手法が近代聖書学が作り上げてきた近代のパラダイムにあることを認め、それを捨てるのではなく、それを用いながらも、他の解釈の枠組みも謙虚に考慮し、学者の書斎ではなく「教会の共同体的コンテクストの中で聖書を読む」という方向性を大切にしたいと。先に筆者が挙げたダンの講演では、はるかに強烈な批判をウォーフィールド型聖書信仰の聖書解釈に浴びせます。それは文字に拘るあまりに聖霊を軽んじ、結果的にイエスが批判したパリサイ人の聖書の読み方ではないかと(この点に関するF. F. ブルースのコメントも興味深いと思います。拙著203~04頁)。

三浦譲氏による「新約聖書における旧約聖書引用の問題」(『聖書信仰との諸問題』158~201頁)

三浦氏の論考は山﨑ランサム氏の上記論文への応答として記されています。この中で山﨑ランサム氏の論文は、丁寧な取り扱いがなされていて、三浦氏の人柄と学問的態度をうかがい知ることができます。

氏はまず、山﨑ランサム氏の論文の肝要な箇所を要約し、それに氏が感じたことの応答を「留意点」として付加し、さらに土俵を広げて、今日アメリカの福音主義内で「新約聖書における旧約聖書引用」の議論がどのように展開されているのかを紹介します。三浦氏が用いるのは、米国ゾンダーバン社から出版されているカウンターポイントシリーズ、Three Views on the New Testament Use of the Old Testamentで、そこにはウォルター・カイザー、ダレル・ボック、ピーター・エンズのそれぞれに異なる立場が紹介されています。筆者はこの書物を読んでいないので、以下に出てくる引用は、三浦氏の論考からのものとなります。

エンズの見解は山﨑ランサム氏と同じで(後者の論文の注にもエンズによる他の書籍も引用されている)、「新約聖書著者たちは旧約聖書のテキストを……オリジナルの歴史的過去の文脈から取り出し、そしてそれを別の文脈、つまりはイスラエルの物語が最終的なゴールに向かう文脈に置き換えた」といい、マタイ2:15はホセア11:1のキリスト目的的再解釈と考えます。

これとは対極にあるのがカイザーの見解です。カイザーはホセアが「神が出エジプトにおいて『わたしの子』であるイスラエルを救い出したという時、その中にはやがてのメシアの先祖も含まれている」と考えます。つまり、ホセアが語る「子」はイスラエルに限定されず、「幼子」メシアを指すこともでき、それ故、ホセアとマタイが意味するところに齟齬はないと論じています。

ダレル・ボックは山﨑ランサム氏の論文では言及されていませんが、『三つの見解』においては、カイザーとエンズの中間に位置しています。ボックは、ホセアが記したとき、記したすべてを完全に理解していたのではなかった、と。「人間の著者がことばに著す時にそのすべてを理解していなかったとしても、聖書の究極的な著者である神が意図したものは」さらに深い意味があり、一つの文脈だけでなく、後の文脈の中で、異なった意味を持ち得ると(179頁)。そこでボックは、オリジナルな文脈におけるテキストの歴史的・釈義的読み方とともに、(後の啓示の光を考慮した)神学的・正典的読み方が必要であると言います(180頁参照)。

三浦氏は、やはりカイザーの読み方は不自然の非を免れられないとしつつも、そこからエンズへと飛躍しなくても、ボックの立場に近親感を覚えると言います(187頁)。それはボックが旧約聖書著者の意図と新約聖書著者の意図の間に「一つの意味」という連続性を認めているからです。最終的にはこの「一つの意味」が後の時間枠において先のテキストに表された計画を徐々に明らかにされると考えているからです。

さて、ここで筆者は、三浦氏が印象として抱いた「エンズ=山﨑ランサム」(184頁)との関係づけを切っておきたいと思います。三浦氏は、山﨑ランサム氏の語る使徒たちの解釈学的態度はエンズから来ていると判断されていますが、それはなにもエンズだけではないでしょう。それは先の1981年のジェームズ・ダンの講演原稿にも明らかですが、新約聖書と旧約聖書が共に同じ神の啓示であり、その言葉・表現も連続している(しているべき)という神学的前提はあっても、新約聖書が旧約聖書を用いるとき、あるいはキリスト教が旧約聖書との一致と整合性を論じれば論じるほど、山﨑ランサム氏が述べているように、キリストと出会うことによって受けた弟子たちの「衝撃」が薄まっていくように思えるのです。

神の究極的啓示は書かれた書物としての聖書ではなく、人として来られたイエス・キリストである。福音主義の釈義はこれまで「書かれた神の言葉」(その重要性は当然である)にこだわるあまり、「ことばが人となった」(ヨハネ1:14)できごとが神の民の聖書理解に与えた衝撃について十分な注意を払ってこなかったのではないか……。(山﨑ランサム、前掲論文、53頁)

このような問題意識は、ダンもエンズも共有しています。旧約聖書と新約聖書が連続していること、双方が神の言葉であることに疑いの片鱗もありません。そんなことが問題になっているのではありません。使徒たちがキリストと出会ったことが最優先され、旧約聖書をオリジナルな文脈ではなく、キリスト中心の文脈の中で旧約聖書を解釈したとき、断続性が生じること、相互に食い違う箇所が出てくることが自然であろうと筆者は考えます。それほどまでにイエスの教えは過激な要素が多く、神の国の到来というイエスのあまりにも大胆な変革、さらには十字架と復活という出来事、さらに聖霊降臨と聖霊の時代の幕開けとしての教会の誕生は衝撃的で、断続性にあふれたものでした。

また、そうした大変革の出来事を直に体験した使徒たちが「歴史的・文法的解釈」で旧約聖書を引用していたとは考えにくいのではないでしょうか。また聖書がそのような実例を提示しているにもかかわらず、連続性や一貫性にこだわるあまりに、デコボコを均していくような釈義的説明がむしろ作為的で説得力を欠くように思います。

三浦氏は、G. K. ビールによるマタイ2:15とホセア11:1の関連性についての論文を最後に引用しています。この論文は、インターネットで全文を見ることができます。ホセア書の中に、一般読者の表面的な理解を超えて、出エジプトとイエスのエジプトからの帰還を関連付けられるような痕跡を明らかにすることはできますでしょう。しかし、このような詳細な読み込みをマタイはホセア書に対してしていたのだろうかと問うと、やはり筆者は疑問に感ぜざるを得ません。

三浦氏の論考の中では、エンズや山﨑ランサム氏の考え方が「そもそも聖書内の矛盾と思われる点を克服しようとするところから発しているように思える」(185頁)とコメントしています。しかし、筆者はその逆に思えて仕方がないのです。旧約聖書と新約聖書は、共に神の言葉として一貫性があることは確かです。しかし本来、新約聖書が福音に照らして旧約聖書を解釈するときに当然生じる旧約と新約のギャップ(断続性)があります。その断続性をいかに埋めるか、断続性を否定して、いかに矛盾なく平坦に一貫して解釈するか、との意図をビールの論文に感じてしまうのは、筆者だけではないと思います。

三浦氏は、使徒たちが実践した解釈学的態度(山﨑ランサム)が「やはり最近台頭してきた読み手中心の聖書の読み方」に通じるものを見ると記しています。しかし、そもそも山﨑ランサム氏の主張は、使徒たちが実践した解釈の手法(解釈学的態度)は、キリストを体験した読み手である「使徒」中心の旧約聖書の読み方だということであると思います。その意味で使徒たちが旧約聖書を解釈する手法は明らかに歴史的・文法的釈義とは次元を異にしていたのではないでしょうか。

使徒たちは「今」の視点から、過去の旧約聖書を読むことができました。そのような解釈を聖霊が許してくださいました。それこそが真理の御霊である聖霊が使徒たちに与えてくださった自由と旧約聖書解釈ではなかったのでしょうか。そして、初代教会以来、おおよそ教会の歴史は、そのような解釈的態度を認めてきたと筆者は考えています。しかし、歴史的・文法的釈義は、ともするとテクスト中心を強調するがあまり、聖霊を中心とした解釈の地平を「今」にもってくることを敬遠します。そのとき、昔と今も、言葉を通して語りかける聖霊の主体性と自由も敬遠されるのではないでしょうか。

文字とともに聖霊を重んじる態度があるのなら、聖霊は御言葉を通してリアルに私たちに語りかけてくるという現実を認め、そして使徒の時代の生き生きとした福音的解釈を私たちに許してくださる、またその聖霊の期待にふさわしく解釈を実践するということを心がけるのが福音主義であろうかと思います(拙著17章「今日的地平と終末的地平」)。

 

さて、山﨑ランサム氏のブログには、あふれるほどの論考が、この聖書解釈について掲載されています。その全部を読むことは大変有益ですが、今回は短くこの問題に言及する論考をお願いできないかと切に望むものです。

*     *     *

山﨑ランサム注記:藤本先生には今回も充実した記事をお寄せいただき心から感謝しています。最後に投げかけられた、この問題に関する私からの応答をとのお招きにも、できるだけ応えて行きたいと願っています。さしあたっては、今回の記事でも言及されている拙論文の内容をもとにした過去シリーズを参照いただけると感謝です。

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