私はこの代々木上原教会での仕事を開始する直前の9月中旬から後半にかけて、沖縄キリスト教センターが企画した「ドイツの旅」に参加しました。参加者の希望を聞きながら、キリスト教センターや旅行社と相談して日程を決め、私が通訳兼ガイドとして案内するというもので、小さなトラブルはあったものの、無事に帰ってくることができ、ほっとしているところです。
ドイツの旅は、10日間ほどの駆け足の旅でしたが、多くの教会を見て回ることができたこと、そして現在のドイツの教会がかかえるいくつかの問題にふれられたことは、私にとって大きな収穫でした。
最初の日に、フランクフルト空港からヴュルツブルクを経て、ロマンチック街道を南下し、ローテンブルクで1泊しました。ローテンブルクというと、ドイツを観光する日本人が必ずといってもよいほど訪れる場所です。
ローテンブルクは神聖ローマ帝国の時代に自由都市として栄えた街で、現在、中世の町並を見ることができます。そこには街を囲む城壁があり、中心部には広場があり、広場に面した建物には大きな仕掛け時計が据えられています。また広場の近くには、1年中クリスマスの飾り物を売っている店もあり、多くのお客さんで賑わっています。広場の近く聖ヤコブ教会というプロテスタントの教会があり、その中に入るとリーメンシュナイダーという彫刻家のつくった祭壇を見ることもできます。
リーメンシュナーダーは、ヴュルツブルクに工房を開き、市長にもなり、ルターの宗教改革にいち早く賛同した人のひとりです。しかしその後、貧しい農民を解放しようと農民戦争に加担したため捕らえられ、二度と彫刻ができなくなったと言われています。またルター派教会は、農民戦争を鎮圧する側にまわったため、リーメンシュナイダーの作品を長い間、評価してこなかったとも言われています。‥‥このあたりまでは、ガイドが必ずといっていいほど説明することですし、日本語の旅行案内書にも載せられていることです。
しかし私は、今回、参加者にもっと別の視点からドイツの街や教会を見てまわってほしいと思いました。ドイツの歴史や文化について学ぶことも意義のあることだと思いますが、教会は決して過去の「遺物」として存在しているのではなく、現在も生きています。「現在」という視点から、ローテンブルクの街の人々の直面している問題や、ローテンブルクの教会のかかえる課題について知ってもらいたいと思いました。
ローテンブルクやその周辺の地域は、現在においては、過疎化という問題に悩まされています。そのあたりは農業が盛んで、農村風景は見事なのですが、企業が土地を買い占め、農場経営が大規模化し、大型の機械が導入され、人手を必要としなくなっています。そのため貧富の差が拡大し、多くの若者が故郷を去っていくという現象が起こっています。そういう中で、教会もまた、経済的に行き詰まり、教会に集まる人たちが少なくなり、十分な活動ができなくなっています。
私は、参加者を案内して、聖ヤコブ教会の外壁に置かれている彫刻の前に行きました。今回の旅では、時間的な余裕がなく、現地の人たちに説明してもらうということはできませんでしたが、私はローテンブルクのプロテスタントの牧師から聞いた話を思い起こし、それを旅の参加者に伝えました。聖ヤコブ教会の外壁に置かれている彫刻は、ゲツセマネの園の光景を画いたものです。聖ヤコブ教会の牧師は、その像の前でこう語りました。「私は、この像を、この教会のもっとも大切なものと考えています。私たちの教会には聖ヤコブという12弟子の一人の名前がつけられています。でも自分たちがヤコブの栄誉にあずかることができるなどと考えているのではありません。聖ヤコブ教会という教会の名前を聞くとき、ゲツセマネでイエスが苦しみつつ祈っている間、居眠りを始めたヤコブのように、自分たちもまた眠っていないかをたえず問い続けています」。
この牧師は、決して聖ヤコブ教会だけが居眠りをしていると言おうとしたのではなく、ドイツの教会が、あるいは世界各地にあるさまざまな教会が、今日という時代のただ中で、主イエスに仕える十分な働きを果たせていないのではないか‥‥と言いたかったのだと思います。そしてゲツセマネの園で居眠りを始めたペトロやヤコブ、ヨハネに、主イエスが「目を覚ましなさい」と言われた言葉を思い起こしながら、私たちもまた目を覚まして、主イエスに従っていくことが大切だ‥‥と言おうとしたのだと思います。
この牧師は、農業の問題を含む今日の困難な社会的状況の中で、キリスト者がいかに目を覚まし、さまざまな課題を明らかにし、それに対応していくことができるのかを問題にしました。私は、このような牧師がいたことを紹介しながら、今回のドイツの旅を始めることになりました。そしてキリスト者が目を覚まして、主に従うとはどういうことなのかと問い続けました。その旅の中で出会った聖書の箇所が、さきほどお読みしましたテモテへの第2の手紙1章3節以下でした。
さて今回の旅では、土曜日にミュンヘンのカトリック教会の夕拝に、日曜日にニュルンベルクのローレンツ教会の礼拝に、さらにその日の夕方に、ライプチッヒの聖トーマス教会の夕拝に参加することができました。これはまさに偶然だったのですが、カトリック教会で説教を担当した司祭、そして二つのプロテスタント教会で説教を担当した牧師は三人とも女性でした。それぞれの力強い説教に、私は大きな感銘を受けました。
ドイツのプロテスタント教会では、教会歴にしたがってあらかじめ割り当てられている聖書の箇所を用いて説教することが多く、ニュルンベルクの朝の礼拝、ライプチヒの夕べの礼拝で読まれた聖書の箇所は、いずれも今日お読みしましたテモテへの第2手紙の1章3節以下でした。
ニュルンベルクのローレンツ教会の女性牧師は、この部分の7節の前半部分を踏まえながら説教を展開しました。7節前半に、「神はおくびょうの霊を与えてくださったのではない」という言葉があります。女性牧師は、「私たちは、この世でさまざまな不安や思い煩いがある、しかしおくびょうになることはない。臆することなく、私たちは確信を持って歩むことができる‥‥」と説教を始めました。
この「確信」とは、「信頼することのできる方」がおられるゆえに、私たちが持つことのできる確信です。12節後半に、「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」とありますが、私たちが臆することなく、不安を取り除くことができるのは、私たちが「信頼できる方を知っている」、そしてその方が、私たちに与えられているたまものを、守ってくださる」からです。
この「確信」は、5節によれば、まずテモテの祖母ロイスと母エウニケに与えられたものですが、それはテモテに受け継がれました。この手紙の著者パウロはテモテに、このことを思い起こし、不安を覚えることなく、力強く歩むようにとテモテに手紙を書いたのです。
ローレンツ教会の女性牧師は、このようなことを述べたあとで、テモテの「不安」、そしてさらに現代人の「不安」について語りました。その牧師は、「人間関係によって生じる不安」、また「社会的な不安」について説明し、最後に核兵器によって「自然や私たち人類が絶滅するという不安」について言及しました。その上で、そういうさまざまな「不安」に対して、キリスト者は、どう対処しなければならないのかと問題を投げかけました。
さてニュルンベルクの教会の牧師が、「不安」をキーワードに説教を展開したのに対し、ライプチッヒの教会の女性牧師は、同じ聖書の箇所に基づきながらも「恥」をキーワードに説教を展開しました。パウロは、8節に、「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と書いています。また10節後半から、12節前半に、「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません」とあります。パウロは、自分は福音の宣教のために迫害を受け、今や囚人となり、苦しみを受けている、しかしそのことを恥とは思わないと断言しています。そしてテモテに、福音のためにパウロと同じような苦しみにあうことがあっても、それを恥としないようにと勧めています。
ライプチッヒの聖トーマス教会の牧師は、このようなことを述べたあとで、「恥」について3つの例を語りました。第1は、経済がすべてに優先する時代の中にあって、教会の財政が逼迫している、社会福祉や教会の対社会的活動の面でも、教会の逼迫した財政の中で、以前のような活動ができなくなっている。教会堂も老朽化している。そういうことを考えると、教会に何ができるのかという思いがしてくる。そういう財政上の困難を抱えている教会を恥ずかしく思う現実がある‥‥と語りました。第2に、旧東ドイツの時代に、自分を含めて、幼児洗礼を授けられた多くの子どもたちが、親に対して、なぜ幼児洗礼を授けさせたのかと詰め寄ることがあったそうです。時代の流れの中で、キリスト者であることじたいを恥ずかしく思うことがある‥‥と述べました。そして第3に、教会で洗礼を受けよう、あるいは信仰告白式を受けようとしている中学生たちとの話し合いの中で、何人かの中学生が、「自分はキリスト者として生きるつもりだけど、周囲からは理解してもらえない。キリスト者となることが恥ずかしく思えることがある」と語っていたと紹介しました。
私はこのような話を聞きながら、ドイツと日本の間には、さまざまな違いもあるものの、共通点も多いと思いました。また、現在という時代がかかえる人類共通の問題や、日常生活の中で起こるさまざまな課題について、目をそらすことなく、真剣に向かい合おうとしている人がいることに、深い感銘を覚えました。
ところで二人の牧師の説教は、すでに述べましたように、最初の牧師は「不安」をキーワードにし、次の牧師は「恥」をキーワードにするという違いがありましたが、結論の部分は同じでした。
7節、8節にこうあります。
「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」
二人の牧師ともに「力と、愛と、思慮分別の霊に生きることが大切だ」と強調しました。
「力と、愛と、思慮分別の霊に生きる」とはどういうことなのでしょうか。
私たちもまた、キリスト者として生きようとするときに、おくびょうになってしまうことがあるかもしれません。臆することがあるかもしれません。あるいはキリスト者であることじたいに恥ずかしく思うことがあるかもしれません。
でもどのような不安が襲いかかってきても、恥ずかしく思いたくなるような状況におちいったとしても、私たちは力強く歩むことができます。それはどうしてなのでしょうか。
力強く歩むことができるのは、[自分が強い力を持っているから]ではありません。私たち自身が、自分の力を確信し、その力を頼みに、自分の思い通りに行動するということではありません。それぞれが「自分が正しい。自分には力がある」と確信し、自分の力を行使するようになったら、そこからはむしろ「争い」しか生まれないでしょう。パウロが言おうとしていることは、私たち自身に「力」があるということではなく、私たちが「神の力」によって生きることができるようになるということです。「力の霊が神から与えられる」ということです。私たちがおくびょうになるとき、臆するとき、不安を覚えるとき、恥ずかしくなるとき、その不安や恥ずかしいという思いを、私たちは、神の力、霊の力によって乗り越えることができるのです。
神に支えられて、私たちはさらに、相手に愛をいだき、ともに力を合わせ、ともに支え合いながら、困難な状況に立ち向かうことができます。主イエスは、私たちを迫害する者、私たちに敵対する者のために祈れと言われたことがあります。私たちは、自分と意見や生き方の異なる人たちとも、愛をもって、ともに生きる作業を始めることができます。それは神の愛を受けることによって、初めて可能になることです。
そして私たちは思慮深くあるべきです。分別を持って行動すべきです。新共同訳聖書では、「思慮分別」と訳されていますが、原語は二つの異なる言葉が組み合わされているわけではありません。私は、「思慮」ないしは「思慮深さ」と訳すといいのではないかと考えています。思慮深く行動するためには、私たちは聖書に親しみ、聖書に学ばなければなりません。しかしそれだけでなく、他者と対話を積み重ねること、さらに神に祈ることが大切なことです。
私たちは、眠った状態で、ただ同じことを繰り返すだけではなく、目を覚まし、どんな困難な状況が私たちのまわりをとりかこんでいるのかを知る者となりたいと思います。夜の暗い闇を見つめると、私たちは不安になるかもしれません。あるいは、みんなが経済的な成功や楽な生活を求めて生きている中で自分だけが苦しみを抱えてしまうと、自分が恥ずかしくなるかもしれまぜん。しかしドイツの教会の中にも、問題点を明らかにし、それに「神から与えられる力、愛、思慮深さ」をもって立ち向かおうとしている人たちがいます。私たちも、ともに力強く歩み、愛をもって互いに支え合い、困難な課題に思慮深く対応していくことがでるのではないでしょうか。それは私たちが、ともに「力、愛、思慮分別の霊」に生かされて歩むときにのみ、可能になることです。神さまが「力、愛、思慮分別の霊を与えてくださる」ことを感謝しつつ、また神さまに、「力、愛、思慮深さを与えてください」と祈り求めつつ、歩む者となりましょう。
主なる神さま、
力、愛、思慮の霊で私たちを生かしてください。
不安、臆すること、恥ずかしくなることがあっても、
居眠りすることなく、あなたに従い続けていくことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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