今朝の礼拝は修養会の開会礼拝を兼ねている。ご一緒に葉山には行けない方々も、こういう形で修養会に参加しているのである。今年の修養会のために選ばれた聖書の個所は、第一コリント12~13章だ。だから今朝はこの個所について話したい。
当時のコリント教会と今の代々木上原教会とでは、むろん事情が違う。例えば、コリント教会内部には深刻な対立があったが、幸いなことに、我々の教会にはそのような問題はない。まだ一致点に達していない事柄がいくつかあるのは事実であるが、それは今後良く話し合って解決して行こうということで皆が合意している。だから、今日の個所を我々の教会に直接に当てはめて読むつもりはないが、それでも、教会の基本的な在り方に関して学ぶ所は少なくない。
先ず、12章にしばらく目を留めたい。パウロはここで教会内にはさまざまな賜物を持つ人がいるということを指摘している。これは、そのまま我々にも通用する。「イエスは主である」(3節)という告白においては基本的に一致していても、その受け取り方や表現の仕方は、人によって一様ではない、と彼は言う。それを人体に喩えて、皆が同じ「足」であったり「目」であったりするわけではない、それぞれ違った働きをする「各部分」が、「体全体」を生かすための有機的な統一を保っているのだ(12-26節)、と言っている。これはとても分かり易い。そして、我々の教会にもこのような有機的な統一があることは感謝すべきことだ。
さて、パウロによれば、これらの賜物は、知恵・知識・信仰・病気を癒す力・奇跡を行う力・預言する力・霊を見分ける力・異言を語る力・異言を解釈する力など、さまざまな形を取って現われる(28節)。そして、どれ一つをとっても無意味なものはなく、どの部分も欠くことが出来ない、と彼は言う。
このことを彼が強調するのは、多分、コリント教会の中に、自らの賜物を誇って、「目が手に向かって『お前は要らない』と言い、頭が足に向かって『お前たちは要らない』と言う」(21節)ような好もしくない傾向が生じていたことに気づいていたからであろう。他人と比べて自らの賜物を鼻にかけたり、他人を低く見たりするようなことが少しでもあると、教会の一致は損われ、無益な争いが始まる。そこでパウロは、一人一人の賜物はそれぞれ違うが、それを有機的に結びつけて生かすような、「もっと大きな賜物」(31節) について語ることが必要だと考えたのだ。
ここから今日のテキストに入る。パウロは、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(31節後半)と言って、有名な「愛の賛歌」を語り始めるのである。
先ず彼は、人によって異なる賜物を与えられていることを再び指摘する(13章1-3節)。
「天使たちの異言を語る」(1)能力、「預言する賜物」(2)、「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じている」(2)宗教的な知恵、「山を動かすほどの」 (2)、 つまり奇跡を行うことの出来る完全な信仰、「全財産を貧しい人々のために使い尽くす」 (3) 献身、「我が身を死に引き渡す」(3)ほどの殉教的熱心、等々である。
だがこれらの賜物は、そこに「愛がなければ」、つまり、「誇ろうとして」(3)という動機に導かれている限り、「やかましいシンバル」のようなもので、「無に等しい」(2)。愛がなければ、「わたしに何の益もない」(3)。
では、愛とはどのようなものか? 4-7節に良く知られた言葉が来る。
この所を、あの美しい文語訳で読んでみたい。「愛は寛容にして慈悲あり、愛はねたまず、愛はほこらず高ぶらず、非礼をおこなわず、おのれの利を求めず、いきどおらず、人の悪を思わず、不義を喜ばずして、真理(まこと)の喜ぶところを喜び、おおよそ事忍び、おおよそ事信じ、おおよそ事望み、おおよそ事耐うるなり」。そして、「愛はいつまでも絶ゆることなし」と続くのである。
ここで言われている「愛」(アガペー)とはどういうことだろうか?
それは、「好きになる」という感情ではない。キング牧師は、「自分を殴ったり牢屋に閉じ込めたりする人々を、私はどうしても好きにはなれない。しかし、その人々のために祈ることは出来る」と言った。愛とは感情ではなく、関係のことである。
ある注解者は、「自己中心的な生活態度を否定する」ことだと言うが、その通りだ。自分の利益・誇り・感情だけに向けられている視線が、今や他者に向けられる。
この「視線の転換」に関して興味ある記事が昨日の新聞に載っていた。ユーゴ騒乱の際、1歳11か月のレカという男の子が無邪気に一触即発の「睨み合い」の中に入って行ったのを「見て」、双方の陣営が思わず笑い出し、「その瞬間、制服も警棒も銃も、もはや無意味になっていた」という。視線の転換が事態を救う。
愛というのは、この視線の転換と深く関係している。しばしば自己にしか向いていない視線を他者に向ける。自分と同じようにこの地上に限られた時の間生き、そして、やがて死んでいく他者。自分と同じように良い所も悪い所も持ち、同じように喜んだり悲しんだりしている他者。その他者の苦しみや悲しみを理解するように努め、彼らの救いのために祈る。これが愛なのだ。この愛は神から来るもので、イエスにおいてこの上なくはっきりと現われ、そしてこの神の愛が我々を愛へと促すのである。
最後にパウロは、預言や異言や知識は「部分的なもの」に過ぎないから、「完全なものが来た時には廃れる」(10節)と言う。やがて来るべき神の国で通用するものは、「信仰と希望と愛」だけだ。「この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13節)。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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