この手紙は第二世紀前半に書かれたと推測されている。第二世紀前半といえば、イエスの死後100年を経過した頃である。この頃になると、キリスト教は地中海世界の至る所に広まっていたが、イエスの生き生きとした記憶を保っていた最初の世代、つまり、イエスの言葉を直接に聞いた使徒たち、十字架と復活の熱烈な証人たちは既に死に絶え、第二世代も世を去って、ある意味では最も難しい時期を迎えていた。数が増えるに従って中身が薄まるという現象が起こっていたし、「異端」と決め付けることには抵抗があるかもしれないが、聖書とは違う根、例えばギリシャ的な思想から生まれた教えが、さまざまな形で教会の中に流れ込んで来ていた。
そういう状況の中で、教会の内部を引き締めるために、主に三つの努力がなされた、と教会史家は言う。「制度」を整えること、「聖典」を確定すること、そして「信条」を明文化することである。この手紙も、似たような努力の現われであろう。パウロの名を冠しているが、パウロが書いたものではない。教会内部で尊敬されていた指導者の名を用いて手紙を書くというのは、その頃よく行われたことだ。
このように、これは第二世紀前半という特殊な状況の中で書かれた手紙だから、現代の我々にはピンと来ない所もあるかもしれないが、案外そうでもない。
先程、「聖書とは違う根、例えばギリシャ的な思想から生まれた教えが、さまざまな形で教会の中に流れ込んで来ていた」と述べたが、「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりする」(3節)のが、その一つの実例である。この「禁欲」の教えは、「グノーシス主義」と呼ばれる思想から来たのであろう、と注解者はいう。
「グノーシス」とはギリシャ語で「知恵」とか「知識」の意味であるが、ギリシャ時代の末期に、「感覚を超越した神秘的な直感によって神との融合の体験が可能になる、これこそ真の知恵である」というような思想が広まり、キリスト教にもかなりの影響を与えた。これが「グノーシス主義」だ。
これは、基本的には「霊肉二元論」だから、物質的な世界や肉体を否定的に見る。プラトンが言ったように、「肉体は精神の牢獄」なのだ。肉体の欲望は、真の知恵に至る道の妨げになる。だから、禁欲しなければならない。「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じる」というのは、そういうことである。だが、これは聖書の中に一貫して流れている考え方とは違う。
創世記には、「神はご自分にかたどって人を創造された」(創1,27)とある。そして、この人間は肉体を備えたものとして、つまり、「男と女とに」創造された。そして、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創1,31)のである。ここには肉体を否定するギリシャ的な考え方は全くない。そしてこれは、基本的には旧約聖書の全体を一貫している。
新約聖書も同様である。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1,14)と言われているように、神の子は人となったのだ。だからイエスは、人間が肉体を持って生きること、食べたり飲んだり、異性を愛したりすることを、決して否定しない。それは本来、神によって認められた「良いこと」なのである。「神が造られたものはすべて良い」(4節)のだ。
ただ、このことに関連して、現代の我々が考えねばならぬことがある。
人間は罪に堕ちた存在だから、神から与えられた肉体を誤って用いたり、汚したりする場合が少なくはない、ということである。新約聖書では、野放図に欲望を解き放つ生き方は明確に批判されている。「放蕩息子の譬え」では、「娼婦どもと一緒にあなたの(父親の)身上を食いつぶした」(ルカ 15,30)男のことを、イエスは決して是認していないし、「愚かな金持ちの譬え」では、豊作で有頂天になった男が自分に向かって「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。…食べたり飲んだりして楽しめ」(ルカ 12,19)と言うのを、イエスは厳しく批判している。
これは、特に現代の我々が留意しなければならない点だ。「飽食の時代」と言われるように、今日、豊かな先進国では、欲望が野放図に解放されているように見える。衣食住や飲食に関して、あるいは性的なことについても、欲望は際限なく拡大する。環境の問題などを考えても、ここではもう少し「禁欲的な」生き方を学んだ方がいい。野放図にではなく、慎ましく生きることを我々は学ばなければならないだろう。
しかし、だからと言って肉体性そのものを否定することは出来ない。特に、地球上の総人口の三分の二がほとんど飢餓線上にあると言われ、劣悪な衛生状態の中で多くの人が、ことに幼い子供たちが惨めに死んでいくということを聞くが、その中で肉体性の意味を否定するようなことを言ったり、したり顔で「禁欲」を説教したりすることは、その人々の存在そのものを否定することになる。禁欲主義が「偽りを語る者たちの偽善」(2節)だと言われているのは、この意味でも理解できるであろう。
最後に、これから行われる聖餐式と関連して述べたい。
我々は「キリストの体」であるパンを食べ、「キリストの血」であるブドウ酒を飲む。このことによって、神が、我々が肉体を持って生きていること、食べたり飲んだりすることを、本来祝福して下さるということを、我々は喜びをもって確認するのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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