地図8・「パウロの宣教旅行2、3」に実線で記されているのがパウロの第二次宣教旅行の行程だ。アンテイオキアから出発して現代のトルコを横断し、トロアスから船でギリシャに渡り、アテネやコリントを経由して再び長い船旅をしてエルサレムに帰っている。50年から53年にかけてであった。途中で、彼はテサロニケに立ち寄った。 テサロニケは、フィリピからほぼ真西へ約100kmの所にある。今日のサロニキである。当時は、ローマ帝国・マケドニア州の首都で、地方総督が置かれ、商業も盛んな港町であった。もちろん、ヘレニズム文化の町だが、デイアスポラのユダヤ人も多くいて、会堂もあった。
使徒言行録17,1-9によると、パウロはここで3週間の間福音を宣教し、相当数の信者が出来たが、そのためにユダヤ人の恨みを買って騒動となり、夜中に密かに脱出する破目になった、という。
このテサロニケ教会に宛てて、パウロはこの手紙を書いているのである。町そのものに対しては、彼は良い印象を持たなかったかもしれない。ユダヤ人にそしられ、町を逃げ出さねばならなかったからである。だが、彼の言うことを受け入れて信仰に入った「多くのギリシャ人」や、「かなりの数の主だった婦人たち」のことを思う時、彼の心には感謝が溢れた。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」(2)。
この言葉は、「お世辞」でも「誇張」でもない。我々の経験に照らしても良く分かる。同じ信仰によって結ばれた友を思う時、我々の心の一番深い所にある思いは、「感謝」である。牧師になって50年、私は、この頃心からそう思う。神は、何という素晴らしい宝を私に与えて下さったことか! 「あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」という言葉は、このまま、素直に受け取りたい。そして、感謝の理由は、あなたがたが「信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」(3)ということである。
キリスト教信仰では、信仰と希望と愛は、パウロがIコリント 13,13でも指摘しているように、「いつまでも残るもの」、従って最も重要な価値と信じられている。この三つを、テサロニケの人々の具体的な形を捉えて描き出したのが、今挙げた節だ。「信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐する」!
「信仰によって働く」。信仰は、単なる口先の言葉ではない。神の愛を、また神の国が来るという約束を信じる時、我々の存在全体が不安から解放され、喜びに満たされる。そのことによって、他者を愛する働きへと動かされる。そういう意味だ。
「愛のために労苦する」。Iコリント 13,4-7 にもあるように、そもそも愛とは労苦を厭わないものだ。母親のことを考えれば直ぐ分かる。
そして、「希望を持って忍耐する」。「希望を持つ」というのは「忍耐する」ことと同じである。希望を持つから忍耐できるのだ。忍耐というのは、ギリシャ語で「ヒュポモネー」というが、この語源を辿れば、「下で」(ヒュポ)+「留まる、あるいは、持ちこたえる」(メネイン)ということらしい。何らかの重圧があっても、そこから逃げ出さない。そこに留まって耐える。
だが、周りの人が励ますつもりで「頑張れ!持ちこたえろ!」といくら叫んでも、希望がなければ耐えることは出来ない。私がかつて大きな手術を受けて入院していた頃、一向に良くならないように思えて、ある日診察を受けながら少し暗い顔をしていたらしい。すると、主治医の先生が私の後ろに立ち、両肩に手を置いて、「私たちは祈りをもってやっております」と言ってくれたことがある。希望が甦り、すっと楽になるような感じだった。私は苦しみに耐え、間もなく快方に向かって退院した。
希望があるから、忍耐もできるのだ。近頃、忍耐することの出来ない人間が増えているのは、この時代に希望を持てないと感じているからではないか。
さて、最後に、この「信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐する」という生き方を可能にするものについて述べたい。
これは、生まれつき我々人間の内に備わった力によるのではない。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信によったからです」(5)。ここに、可能根拠があるのではないだろうか。
「わたしたちの福音」というのは、「私たちが主張している神学理論、ないしはイデオロギー」という意味ではない。「私たちを生かしてくれる福音」である。
パウロはもともと、律法を完璧に実践することによって、つまり自力によって何かを達成できると考えていた人だった。その立場で、彼は人を裁き、イエスを殺すことも正義だと考えていた。だがある時、「なぜ私を迫害するのか」というイエスの声を聞いたような気がして、徹底的な挫折を経験する。その彼が立ち直ることが出来たのは、ただ、イエスにおいて「なんら誇るべき物を持たぬ罪人をも受け入れて下さる神」と出会ったからであり、イエスによって、この驚くべき福音を信じるように導かれたからであった。
そのように、単なる空虚な言葉としてではなく、人間を根底から揺り動かす福音の力と出会い、それによって彼は生かされた。この福音が「信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐する」という生き方を可能にしてくれるのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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