聖書が語る「赦し」とは。何度までなら赦すべき?イエスのたとえ話から深掘り

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

教会に行き始めた若かりし頃、ある時牧師が何気なく「信仰の生活で一番難しいことは、仕えることと赦すことなんだよな~」と語られました。そのときは、「はあ~。そういうものか~」と漠然と思っただけでしたが、何故か耳の奥に残っていて、時を経るにつれてその言葉の重みを知ることが増えてきたような気がしています。どちらも他者との関係の難しさを示していますね。皆さんはいかがですか。
特に「赦し」については自分だけではなく、多くの方々が様々な思いをもたれ、色々な場面を経験なさっているのではないでしょうか。
国や民族レベルでも争いが絶えない(赦し合えない)ことを見る時、これは個人の問題だけではなく、人類の永遠のテーマのように感じてしまいます。

今日は、そんな「赦すこと」について聖書は何を伝え、私たちはどうしたらよいのか、どう向き合ったらよいのか、何か秘訣のようなものがあるのか、イエスのたとえ話を中心にご一緒に学んでいきましょう。

目次

1万タラントの負債を免除された者のたとえペテロの質問とイエスの答え1万タラントの負債とは100デナリの負債とは自らの立ち位置を見直す恵み赦しを実践した人びとその1、ユタ州の収容施設で働く若いアメリカ人女性のはなしその2、日本軍の捕虜になったアメリカ軍兵士のはなしその3、真珠湾攻撃の総指揮官 淵田美津雄のはなしまとめ

1万タラントの負債を免除された者のたとえ

ペテロの質問とイエスの答え

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。 
マタイによる福音書18章21~22節

はじめにペテロがイエスに次のような質問をしました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 

ペテロは日頃のイエスの言動から、赦すことの大切さを感じ始めていたのでしょうか。「一回二回ではなく、繰り返し赦すことが大事だということを私は知っていますよ。」と言わんばかりです。

それに対してイエスの答えがこれです。「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」
もうこれは、人の常識をはるかに超えた数です。「そんなちっぽけな赦しなんかじゃない。数え切れないほどに赦すのだ!」と言われたのです。
そして、語られたのが次のようなたとえ話でした。

「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 
決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 
しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 
そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 
僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 
その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 
そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 
しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 
その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 
そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 
わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 
そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 
あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
マタイによる福音書18章23~35節

1万タラントの負債とは

イエスが設定したのは、王とあるしもべの精算の場面です。
この僕は王に対して1万タラントの負債があったといいます。1デナリが1日の労賃くらいとのことで、それを仮に1万円だとしますと、1タラントは6,000デナリだそうですから、6,000万円ほどになります。さらにそれの1万倍ですから6000億円というとんでもない金額になります。

本人は「必ず返すのでお待ちください」とひれ伏して哀願したといいますが、妻子や持ち物を売ったり、昼夜を問わず働いたくらいでどうにかなる金額では無いのはあきらかです。
王はそれを見てあわれに思い、何と全てを赦免してくれました!

100デナリの負債とは

赦された僕が外で出会ったのが、彼から100デナリの借金をしていた人でした。
この100デナリの借金をしていた人も、この僕と同様に「必ず返すのでお待ちください」とひれ伏して哀願したのですが、彼は赦さず、獄に入れてしまったといいます。

100デナリは先ほどの例に当てはめると、100万円くらいになります。もしこの僕が返済途中であるならまだしも、全額赦された上でのこの行動は誰もが納得いきません。このことが王の耳にも入り、悲しんだ王はこの僕を投獄してしまったというおはなしです。

自らの立ち位置を見直す恵み

お察しのとおり、このたとえ話の王は神様、1万タラント赦された僕は私たちになぞらえられています。そして負債の精算とは、罪の精算を意味します。

私たち人間は聖なる神の前には立てないほどの汚れきった存在であるというのが聖書的な世界観であり人間観です。しかし、神は正義を貫きつつもあわれみを実現させるために、ご自分の独り子であるイエス・キリストを地上に送り、このイエスに私たちが負うべきすべての罪の罰を負わせて、私たちの罪の負債を帳消しにしてくださったというのが、「1万タラントを赦された」というこのたとえにこめられております。これがイエスが人となってこの世に来られたクリスマスの物語であり、イエス・キリストの十字架による贖罪しょくざいなのです。皆さんはいかが思われますか?

私たちはつい自分の目線から、「自分に対して罪を犯す者、自分に対して不利益をもたらす者、自分の尊厳や名誉を著しく傷つける者が赦せない」といった気持ちになってしまうのですが、神様は「じゃあ、あなた自身はどうなのだ?」と問いかけられているようです。あなたは誰彼に、そして何より神に対して、非礼な振る舞いをして傷つけていないのか? その尊厳をないがしろにしてはいないのか。裏切ってはいないのだろうか。そのように加害者である自分、加害者になりうる私に目を止めさせてくれます。

そして、何より「そんな私たちは、返しきれない負債を主人から赦された、大きなあわれみを受けている者である」ことを思い出すように、イエスはこのたとえを通して示しているように思います。
簡単ではないかもしれませんが、これらの視点に立てたとき、あなたの「赦す」という難しい課題に大きな助けが与えられることでしょう。

つづいて、少し古い時代になりますが、第二次世界大戦のころに「赦すこと」を実際に経験された3人のはなしをご紹介したいと思います。

 

赦しを実践した人びと

その1、ユタ州の収容施設で働く若いアメリカ人女性のはなし

戦時中、アメリカのユタ州に日本の傷病兵を収容する捕虜収容病院がありました。そこに一人のアメリカのお嬢さんが現れるようになり、以来、日本人捕虜たちに大変親切に尽くしてくれたのだそうです。そしてその態度は日が経過しても変わることなく、そのサービスには一点の邪念も見えなかったそうです。敵国の捕虜にこのような親切を施すその姿に皆が心打たれ、「なぜ?」と問うようになりました。まるで日本人に大きな借りや恩義を返さなければならない人であるかのように感じていたそうです。彼女ははじめ答えをしぶっていたのですが、何度も訊くうちにようやく口にしたのは意外にも「私の両親が日本軍によって殺されたからです」というものでした。

その両親は日本人を愛し日本で宣教師をしていたのですが、戦禍が迫る中、フィリピンの山奥に疎開してそこで過ごしていました。一方フィリピンの日本軍は、形勢不利のままフィリピン山中へ追い込まれ、そこでこの夫妻に出会ってしまうのです。日本語の上手い彼らは現地でのスパイ容疑をかけられて、処刑されてしまうのですが、処刑前に30分の猶予をもらい聖書を読み祈ったといいます。
アメリカの大学4年生だった彼女のもとにこの知らせが届いたとき、彼女の心はどれほどの痛みと悲しみを、そして怒りを覚えたことか想像することができません。

しかし、その後の彼女の生き方をみるとき、その痛みをそして憎しみや怒りを乗り越えて勝利したことがみて取れます。それは、おそらく両親の死の直前に何かを祈ったというその祈りが、イエスの十字架上での祈りにオーバーラップして感じられたからではないでしょうか。彼女は悲しみを乗り越えて、両親の願いであった無知なる日本人への愛と献身をあらわす生き方を引き継いだのだと思います。

その2、日本軍の捕虜になったアメリカ軍兵士のはなし


ジェイコブ・デシェーザー
Wikimedia Commons

米軍の爆撃手で、ジェイコブ・ディシェイザーという人がいました。彼は真珠湾攻撃をした日本を赦すことができないと考え、自ら志願して日本本土への初空爆に参加。名古屋に300発近くの焼夷弾を投下したといいます。その後、中国の所定の地域に着陸する予定だったのが、燃料切れのトラブルがあり、日本軍の支配する地域に落下傘降下してしまったために、捕虜になってしまいました。仲間の何人かは処刑され、また何人かは餓死し、自らも収容生活で過酷な日々を送る中、日本への憤りや憎しみはさらに拡大していきました。

ところがそこで、「自分たちはなぜ際限なく憎しみあわねばならないのか」という疑問と、憎しみを兄弟愛に変えるキリストの教えを調べてみたいという不思議な欲求が与えられたといいます。あるとき彼の独房に1冊の聖書が3週間の期限つきで差し入れられたそうです。彼はむさぼるように聖書を読み、そこである言葉が彼の心に突き刺さってきました。

そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
ルカによる福音書23章34節

このとき、ディシェイザーの心に、「真珠湾攻撃を行った日本人も、自分たちを捕虜にして過酷な扱いをしている日本人たちも自分たちが何をしているのかがわからないのだということだ。イエスが言ったように自分も赦してみようか」との思いが芽生え始めたのでした。彼は自分の心に正面から向き合い、その答えを求めて聖書に向き合って、自らも赦しを経験して、憎しみの連鎖から解放されていきました。

彼はのちにキリスト教の宣教師となりました。かつて自分を虐待した日本人を愛し、かつて自分が爆撃をおこなった名古屋を中心に30年にわたり伝道活動をおこなって、20もの教会の設立に協力したそうです。

その3、真珠湾攻撃の総指揮官 淵田美津雄のはなし


淵田美津雄
Wikimedia Commons

戦前、戦中派の方々でこの名前を知らない人はいないのではないでしょうか。真珠湾攻撃の総司令官だった淵田美津雄という人のはなしです。
彼は、真珠湾攻撃で国の英雄になりました。「トラ・トラ・トラ」(われ奇襲に成功せり)を機上から打電したのも彼だったといいます。

しかし、日本は戦争に敗れ、戦後、彼のような軍人は「日本を戦争に巻き込んで不幸な目に合わせた張本人」として周囲から冷ややかな目で見られる存在になってしまいました。郷里に帰ってからの生活はご近所との交流もなくそれは惨めなものだったといいます。さらには連合国軍による統治がはじまると、軍事裁判も行われ、度々呼び出されては証言をさせられました。戦犯裁判は勝者による敗者への国際正義の名を借りた復讐ではないかと、憎悪の念を強くしていきました。

なんとか一泡吹かせたいとの思いから、彼は日本人捕虜に対してアメリカが何か非道な行いをしなかったかなどを調べ始めました。そこで金ケ崎という帰還兵から聴き取りを始めたところ、ユタ州の収容所で日本人捕虜に対して献身的に尽くしてくれたペギーという若い女性のはなしを聞きます。そう、ペギーは先に紹介した、フィリピンで両親が日本軍に処刑された若い女性のことです。彼は、「両親が殺されたのならその態度は辻褄つじつまが合わない」とひどく混乱をし、しかし、そのことが大きく彼を動かし始めました。憎悪から愛に転換したのはなぜなのか…?

そして、ある時、所用で渋谷駅前にいたときに、西洋人からこんな小冊子を受け取りました「私は日本の捕虜でありました」というもので、元アメリカ兵が日本人を赦すようになった経緯が書かれているものでした。淵田は自分と逆の立場で同様な境遇を歩んだ一人の元アメリカ兵のはなしに親近感を覚えます。そう、この元アメリカ兵は先程のディシェイザーですね。
この2つの出来事を通して、淵田も憎しみを兄弟愛に変えるキリストの教えを調べてみたいという不思議な欲求が与えられ、むさぼるように聖書を読んだといいます。
淵田が出会った言葉も

そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」

というルカ23章34節のみことばでした。
そして、両親を殺した日本人に仕えたペギーの、その行動の裏に込められた意味にも目が開かれたのでした。


のちの淵田美津雄 『手負いの虎』より

彼は、「自分が何をしているのかわからないものであった」ことを告白し、涙を流して悔い改め、イエスの十字架による赦しを受け入れてクリスチャンになりました。そして伝道者になって、ディシェイザーとは逆にアメリカへ渡り、自らの体験を証しし、赦しと平和を語り続けました。

まとめ


淵田美津雄とジェイコブ・デシェーザー
Wikimediaより

神様は愛とあわれみのお方。それゆえ私たちにも「赦すこと」、つまり憎しみを捨て、怒りや恐れを捨てて「愛し合う」ことを望んでおられます。それは感情を押し殺して、形式的に従うということではないように思います。それを神が願っているのは、私たちにとって、赦さないでいることより赦すことの方が幸せなことだからなのだと思います。
怒りや恐れ、憎しみを内包したまま、反撃をするかしないかで悩む姿は決して神が願っていることではないということです。先に見たたとえ話や、経験者のはなしは、実際に憎しみの連鎖からの解放があるのだということを示しているように感じました。そしてそれらが、具体的かつ実際的なはなしであることも…。

ペギーの両親の祈りや、ペギーの献身の決断。そしてディシェイザーの体験が淵田美津雄の救いにつながったことは、それを裏づけていますね。
そしてその鍵になるのはイエス・キリストの十字架の愛にあり、私たちがそれを受け入れるところから始まると言えるでしょう。神は私たちの「赦すこと」を必ず後押ししてくださいます。希望をもちましょう。

まず自分自身との間に、また自分と周囲の人との間に、そして国や民族の間にも本当の赦しと平和がありますように。

参考図書:手負いの虎 T.マーティン・ベネット著
     真珠湾からゴルゴタへ 淵田美津雄著

淵田美津雄の人生について、詳細に書かれた書籍『手負いの虎』(2020年発行)は新生宣教団が印刷を手がけた書籍です。興味がある方はぜひお読みください!
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