朽ちない絆に与かる礼拝

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「朽ちない絆に与かる礼拝」

陶山義雄
イザヤ書56,1-8;

教会の暦で本日は「終末主日」と呼ばれています。そして来週・11月27日はいよいよクリスマスの時節を迎えて、「待降節第一主日」になるのです。教会にとって本日は1年を締めくくる最後の週となる訳です。物事に始めがあるように、終わりも訪れます。人の一生も誕生に始まり、死をもって終わります。宇宙、世界にも始めと終わりがあるのですが、その有様を見届けることが出来るのは創造主のみである筈です。創造主を仰ぎ、信じる教会と信徒にとって、1年の始まりを、主のご降誕を待ち望む待降節から数え、「終末主日」に続く1週間を年の終わりとして迎える、そのような1年のサイクルの中で、私たちは創造者である神のご経綸の中に生き、また死を迎える存在であることを自覚するのです。礼拝の初めに招詞で引用したヨハネの黙示録21章は、続く22章と共に、世の終わり、終末を描いた中の1節(黙示文学)です。誰も未だ見たことのない世の終わりですが、教会暦を通して、創造主による始めと終わりを自覚してきた私たちキリスト者には、黙示録の作者と同じように、描かれた終末を受け入れることが出来るのではないでしょうか。しかも、来週から主のご降誕を覚える私たちにとって、終わりは、新しい天と新しい地へと招かれる喜びの時になるのです。そして、そのように世の終わりを想定して信じる者にとって、個人の終わりである死も、救いが完成する、新しい世界に招かれる喜びの時である、と云う聖書の御言葉をそのまま、信じて受け入れることが出来る違いありません。今日の「招詞」には終末の喜びが語られています。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

終末主日の礼拝に相応しい讃美歌として、先ほどご一緒に歌いました230番「起きよ、と呼ぶ声」があります。この讃美歌の1節と2節は花婿の姿で地上にキリストが来られた情景が謳われ、また、そのキリストを迎える花嫁の姿で私たち信徒が謳われています。 待降節とクリスマスに相応しい内容です。続く3節ではクリスマスから一転して、世の終わり、信徒が神の御前で讃美の礼拝を捧げる情景が歌われています。

「グローリア(栄光あれ)とたたえよ、御使いらと共に、たてごと奏でて
 主の御座めぐりて、集う聖徒たちと、歌声あわせて。
 いまだ知らぬ この喜び、ハレルヤ(主を誉めたたえよ)
 われらも歌もて ほめたたえよ、 アーメン」

誠に待降節と終末主日に相応しく、主を待ち望み、迎える信徒であり、終わりに臨んで、祝宴に与かり、御前にあって共に讃美を捧げる私たち信徒に相応しい讃美の歌ではありませんか。

実は、この讃美歌を作詞、作曲したフィリップ・ニコライ(1556~1608)は、16世紀後半・宗教改革が一段落した頃、ウェストファーレン州にあるウンナと云う町でルター派・教会牧師をしておりましたが、この讃美歌を作った1597年は、この地でペストが大流行し、1週間に1300人以上も教会員の葬儀をするような忙しい時でした。ニコライは死者への哀悼と残された人々を慰めるには、聖書の御言葉に基づく讃美歌以外にないことを思い、この讃美歌と今一つ、この礼拝説教のあとで歌う276番「暁の空の美しい星よ」(旧346番「たえに麗しや」)を作りました。 以来、この2つの讃美歌は親しみをもって歌い継がれ、ドイツでは「コラールの女王」と呼ばれている讃美歌であります(旧174番「起きよ、夜はあけぬ」は由木康の名訳)。

『ドイツ讃美歌史』によりますと「当時、苦難と死とに取り囲まれていたニコライは、ある朝、起き上がって、その全精神を救い主キリストに向け、キリストの愛と天上の喜びとにひたりつつ、歌を作り始め、他の一切のことを忘れ、昼食をとることすら忘れ、午後3時頃やっと仕上げた」と云うエピソードが残されています。二つの讃美歌のタイトルとしてニコライは「永遠の命を映した喜びの鏡」(Freudenspiegel des ewigen Lebens)と付けています。終末主日に相応しい讃美歌ですので、本日はこの二曲を選ばせて頂きました。

フィリップ・ニコライの讃美歌にある通り、天と地が一つになる終末では、今まで地上で捧げて来た礼拝が天上と一つになって完成する時でもあります。未だ、その途上にある私たちは地上にあって、天上でも受け入れられるには、どのような礼拝を捧げたら宜しいのでしょうか。パウロは本日の聖書の冒頭でこう述べています。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」

「いけにえ」については、本日の週報・「牧師室から」で永井 隆博士の言葉から、後程、注目したいと思いますが、この12章1節を締めくくる言葉としてパウロが述べている「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とは、どう云う事でしょうか。

「なすべき礼拝」にあたる元の言葉をパウロはギリシャ語で ロギケーン・ラトレイア(λογικην  λατρεια)と書いています。最初の言葉「ロギケーン」は、ロゴスの形容詞で、ロゴスとは「理性」とか「道理」を表す言葉ですから、「理にかなった礼拝」、もしくは「筋の通った礼拝」と云う意味を持っています(ルターの独訳では「理性的な{vernunftiger}」となっている。)。また、ロゴスはヨハネ福音書の序文として「ロゴス賛歌」に登場していますが、その中でロゴスはキリストを表しています。ですから、「キリストのような礼拝、キリストに倣った礼拝」と云うように理解することも出来ます。以前、私たちが親しんでいた口語訳聖書では「それが、あなたのなすべき霊的な礼拝である」と訳されています。新共同訳の「なすべき」の後に「霊的」を加えているのです。新約聖書ではロゴスの形容詞が他にもう一か所、ぺテロ前書2章2節にもあるのですが、そこでは「霊的」となっています。(「霊的滋養」、「霊的乳」、つまり「キリストから頂く栄養」の意)= RSV (spiritual worship Rom.12:1)

ロギケーンに続くギリシャ語の言葉:ラトレイアは、通常「礼拝」と訳されておりますが、「仕える事」、「奉仕すること」を意味しています。英語で「礼拝」のことをサーヴィス(service)と云っておりますが、ギリシャ語と一致する言葉です。関連して、「礼拝」を表すいま一つの英語に Worship があります。こちらの方は英語の先祖の一つであるケルト語の「ウェルト・スキッペ」から来ています。それは「最高の価値」と云う意味を持っています。

「それなくしては生きることの出来ない最高の価値」とは何でしょうか。パウロは・コリント13章でこう述べています:「そこで私はあなた方に最高の道を教えます」と云う言葉に続いて「愛の賛歌」を語っています。つまり、「愛は最高の価値」であり、それに与かることがワーシップ・礼拝である訳です。サーヴィスとワーシップから、礼拝とは「奉仕であり、最高の価値に与かること」なのです。先ほどお読みした、イザヤ書56章7節の言葉:「わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる」、この言葉はイエスがエルサレムに入城され、神殿を訪れた際に、物売りと両替人たちがハビコッテいる神殿を嘆き、批判された時に引用された言葉でもあります:「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきではないか。』」(マルコ福音書11章17節) イエスによる有名な「宮浄め」の一節ですが、パウロの言葉と、イエスの言葉を重ね合わせると「なすべき礼拝」、「相応しい礼拝」、「キリストに倣った礼拝」とは、どのような礼拝であるべきかが分かります。それは「奉仕であり、最高の価値であり、全ての国の人の祈りの家」、それが礼拝であることが分かります。

このような、なすべき礼拝に与かる人たちは、ひとつの共同体(交わり)へと造り変えられます。そのことについて、ロマ書12章3節以下でパウロはこのように指摘しています。礼拝に集う人々が、今まではバラバラであったのに、「キリストに倣う奉仕・礼拝」を通して、一つの体に繋がる枝となって作り替えられるのです。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです。(同5節) 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって相手を優れた者と思いなさい。」(同10節) 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさ。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(同14節)

これらの頂点に15節の言葉があります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」こうした交わり・共同体に生きる人たちは、交わりの外にいる人々に向かっても、相応しい働きをするようにパウロは勧めています。「誰に対しても、悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけなさい。」(同17節) 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」(同20節) 復讐は主に委ねて、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(同21節)

こうした生き方は到底、私には出来ない、と云いたくなります。ですから、「なすべき礼拝」が大切なのです。自分一人ではできなくても、礼拝に集う人々が心を合わせて祈り、キリストがそのように生きて下さった道に倣って生きることを始める中で、このような「愛の共同体」が生まれるのです。私一人の中には、そのような力がないことをパウロは見抜いているので、今日のテキストの冒頭で、こう語っているのです:「こういう訳で、(兄弟たち、)神の憐みによってあなたがたに勧めます」(同12:1)

「こういう訳」とは11章まで述べて来たすべてを指していますが、とりわけ、ルターが「信仰義認」の教訓を導き出した箇所は、宗教改革記念日で思い起こす箇所ですから、特に銘記しておきたいと思います:「人は皆、罪を犯して、神の栄光をうけられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより、無償で義とされるのです。」(ロマ3:23)

「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(同7:23)

私たちは「このように、神の憐みによって」キリストに倣う礼拝に今日招かれているのです。「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして捧げなさい」とは、どう云うことでしょうか。交わりの中で新しい命を与えられ、交わりの中で天に召されて行く私たちにとって、生きることも死ぬことも、自分一人の出来事ではありません。「キリストに倣う礼拝」を通して、私たちは「朽ちない絆に与かる存在である」からですから、パウロが同じロマ書14章7節で言っていることが私たちにも当てはまるのです。:「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても。わたしたちは主のものです。」

 本日の週報の「牧師室から」でご紹介した、長崎の聖人と呼ばれている、永井 隆博士が原爆犠牲者合同葬儀で述べた不朽の弔辞にこのことが実によく語られている事に私は感動を覚えます。紙面の都合上、弔辞を全部載せることが出来ませんでしたが、以下の言葉に「いけにえとして捧げることとはどう云うことか」が良く表れています:

「信仰の自由なき日本において迫害のもと、400年迫害・殉教の血にまみれつつ、信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に捧げらるべき唯一の潔き子羊ではなかったでしょうか。この子羊の犠牲によって、今後更に戦禍をこうむるはずであった幾千万の人々が救われたのであります。・・・日本は敗けました。浦上は全くの廃墟です。見ゆる限りは灰と瓦、家なく、衣なく、食なく、畑は荒れ、人は少なし。・・・日本人がこれから歩まねばならぬ敗戦国民の道は苦難と悲惨に満ちたものであります。・・・この苦難の道こそ、罪びと吾らに、償いを果たす機会を与える希望の道ではありますまいか。・・・血にまみれ、飢え渇きつつこの道を行くとき、カルパリの丘に十字架を担ぎ登りたまいしキリストは私たちに勇気をつけて下さいましょう。」

「召天者記念礼拝」に与かる度ごとに、私は天に召された方々から命を頂いて今ここにあることの恵みを感じます。列車が線路の上を走るように、私たちはこれらの方々が敷いて下さった線路の上を今歩んでいるのです。やがて召された後で、今度は私たちも線路になる光栄に与かることが出来るのです。それが「朽ちることのない絆」に与かる私たちではありませんか。終末主日の礼拝に臨んで、私たちはこのことを銘記しておきたいと思います。私たちの終わりは、輝かしい栄光に包まれるのです。それは、安息日ごとに、「主に倣う献身・礼拝」を捧げ、朽ちる事のない絆に与かっているからです。


 
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