今日の礼拝は、「宗教改革記念日」(10/31)を記念して守りたい。
先ず何よりも、「宗教改革」という世界史的な出来事が、マルチン・ルターという一人の人間の内面に起こった変革から始まったことに注目しなければならない。
若きルターは、「神の義」は律法に示されていると信じ、律法を行うことに渾身の努力をした人であった。しかし、努力すればするほど却って自分の罪の大きさを知らされて絶望し、遂には「神の義」という言葉を憎むようにさえなる。こうした内面的苦悩の中で彼は、1513年頃のことだが、ローマ書1章17節の言葉と出会う。「神の義は啓示されている」、また「義人は生きる」! この出会いが彼を変えた。この内的変革を経験した場所に因んで「塔の体験」と呼ばれる。
彼自身の言葉によると、「神の義が福音を通して啓示された、という命題の意味は、… 憐れむ神が我々を信仰によって義とするところの義であるということである。…ここで私は正に生まれ変わったように感じた。そして開かれた門を通って正に天国に入ったように感じた。その時たちどころに、全聖書が私にとって全く別の姿を示すに至った。… 私が『神の義』という言葉を憎んでいた憎しみが大きかっただけ、それだけ一層大きな愛をもって、私はこの言葉を … 極めて甘美な言葉として称揚した。… この箇所は私にとって正に天国への門となった」。
ルターは「福音を再発見」したのである。その彼にとって、当時の教会が大々的に「免罪符」のセールスを始めたことは甚だしい逸脱と映った。1517年10月31日、彼はこれに抗議する『95箇条の提題』をヴィッテンベルク城教会の扉に張り出して、この問題に関する共同討議を呼びかけた。これが「宗教改革」の発端である。
むろん、宗教改革はルター一人の仕事ではない。時代がそれを要求していたのである。その頃、西欧社会では学術が興隆し、自律化が進み、都市の市民階級が経済力を蓄えるなど、急速に変わりつつあったが、教会だけは特権の上に安住していた。教会による搾取や聖職者の不道徳は目に余り市民の不満は鬱積していたのに、教会は一向に自らを改革しようとはしない。
もちろん、教会改革の試みは何度もあった。英国オックスフォードのジョン・ウィックリフ、少し後にチェコではプラハのヤン・フス、イタリヤではフィレンツエのジロラモ・サヴォナローラといった先駆者たちの運動がそれだが、これらの試みはことごとく教皇庁によって潰され、この三人は火あぶりにされて殺されてしまう。
こうして、決定的な時(カイロス)が近づいていたのだ。その時、ルターの『95箇条の提題』は、たった一本のマッチが乾燥しきった草原を燃え上がらせるように、全ヨーロッパに火をつけた。むろん、それで目標が達成されたわけではない。残念ながら、ルター自身の中にも新しく生まれた教会にも、重大な行き過ぎや不徹底があった。改革は継続されねばならなかったのに、実際はそうならなかった。
そもそも「プロテスタント」とは、「抗議する(プロテスト)」から来た呼び名だ。真理からのあらゆる逸脱に対して、もちろん自らの教会が犯す逸脱に対しても抗議するのがプロテスタント教会の本来の姿である。その点で、宗教改革は不徹底だった。
例えば、カトリック教会との関係が必要以上に敵対的になったこと。ルター派の中に宗教改革の中心思想を「原理主義的に」固守しようとする「正統主義」が生まれて生き生きとした活力を失ったこと。1618年にドイツ国内でカトリック諸侯とプロテスタント諸侯との間で30年続く宗教戦争が起こったこと。その後のルター派に現状維持的な「秩序志向」が強まり、批判的な精神が失われたこと―― これらはすべて教会の自己批判が不徹底であったことから来ている。歴史家の中には、こういったことがナチスの台頭を許す一因になったと指摘する人もいる。「絶エズ改革サルベキ教会」という。改革は神の意志に従って不断に続けられねばならないだろう。
では、今改革されなければならないのは何か? キリスト教の中にはびこる対立・不一致ではないだろうか。これは「教会の信頼性」を著しく傷つけている。
1968年に私はボンで、この主題に関するカトリック神学者ハンス・キュングの講演を聞いた。彼は先ずカトリック教会の「偽善」を、聞いている私がハラハラするほどの率直さで指摘した。しかし、続いて彼は厳しい批判の矛先をプロテスタント教会に向け、そこにあるのは「真実熱狂主義」だと述べた。真実を追究するのはいい。だが、それが余りに「熱狂主義的に」なされる結果、プロテスタントの中には数限りない分裂が生じた、というのである。この言葉を私は忘れることが出来ない。
「熱狂主義」とは、本来、神だけが持つ最後の言葉を、人間が性急に自分の手の中に持とうとすることである。いい加減な妥協も良くないが、教会は最後の言葉を神の手から取り上げる熱狂に陥ってはならない。これは必ず分裂を招く。
その点で、第二ヴァチカン公会議(1962-65)以来、カトリック内部に対話への気運が高まって来たことは喜ばしい。平和や人権、環境問題のための密接な協力関係は日本でも既に長い歴史を持つが、今や対話は神学的な意味でも深まり、その成果として1987年には『新共同訳聖書』が完成した。1984年からはカトリック教会とルーテル教会との間で神学者たちの持続的な対話が始まり、この努力が実を結んで、最近『カトリックとプロテスタント―― どこが同じで、どこが違うか』という本にまとめられた。これを読むと、対立はそれ程大きくはないということがよく分かる。
我々の教会も、この方向に進むべきではないか。もともと、主イエスはただ一人なのだから。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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