「"鳥たち"が生きるための場所」

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99・11・21

「"鳥たち"が生きるための場所」

広石 望
イザヤ書 2,2-5 ;マルコ 4,30-32

 

I

キリスト教の出発点となったイエスはユダヤ人で、パレスチナ北部のガリラヤ地方、そのナザレという村の出身です。イエス時代のガリラヤは経済的にはかなり発展していて、そこには非ユダヤ系の住民が多く住んでいる都市もいくつかありました。イエスはしかし、そうした都市には足を踏み入れず、むしろ同朋のユダヤ人が住んでいる村々を巡り歩いて、「神の国は近づいた」と告げて回りました。その際に彼は、故郷と親兄弟を捨て、無一文で放浪するという生活スタイルをとりました。そうして人々に直接語りかけ、弟子を集め、社会でつまはじきにされていた者たちとも食事を共にし、精神的・身体的な障害者はその障害を治してやった上で社会に復帰させ、また当時の宗教的指導者たちとは激烈な論争を交わしました。

 

ですから「神の国は近づいた」というイエスのメッセージは、「救いをもたらす神は今ここで働いているのだ。私の言っていること、していることは、そのような神の力の現れなのだ」ということを意味しています。イエスは、この「救いをもたらす神の力」だけを頼りに生きました。だからこそ身を守る一切の手段を放棄して、まったくの空手で人々の中に入って行ったのです。

 

それまで世間から半人前にしか扱われてこなかった人々、病気と差別に苦しめられていた人々は、イエスから大きな慰めと喜びを受け取りました。しかし他方で、宗教的に信心深い人々や、政治権力の座にある人々から、イエスは憎まれました。それは彼が「聖」と「俗」の間の伝統的区別を一度ならず、しかも公然と無視したからです。彼が行った「神の国」の宣教が、事実上、当時の権力構造に対する鋭い批判になっていたからです。そしてイエスは、エルサレムの都で、逮捕されて拷問を受け、十字架にかけられて殺されました。

 

II

さてそのイエスは、彼のメッセージの中心であった「神の国」について、繰り返し〈たとえ〉で語っています。先ほどお読みした「芥子種のたとえ」も、その一つです。「神の国を何にたとえようか。それをどのようなたとえで示そうか?」とイエスは話し始め、「それは一粒の芥子種のようだ」と言い、一つの物語を語ります。それは、〈芥子種が蒔かれ、芽を出して大きくなり、やがて大きな枝を張る〉というシンプルなストーリーから成っていますが、そこには独特な味付けが施されています。いくつか指摘します。 

 

先ず〈芥子種が蒔かれる〉というところでは、「地上のどんな種よりも小さい」という言葉で、その種粒の「小ささ」が強調されています。当時最も一般的であった「黒芥子(sinapis nigra)」の場合、種一粒の直径は0.95-1.6mm しかありません。実際、人が手にとることのできた最も小さい種だったのでしょう。「小ささ」のシンボル的存在として、芥子種は諺にもなっていました。イエス自身も、〈信仰は、ほんの小さなもので十分なのだ〉と言うのに、〈芥子種一粒ほどの信仰があればよいのだ〉(マタイ17,20/ルカ17,6)と語っています。

 

次に〈芽を出して大きくなり〉というところでは、「種の小ささ」とは逆に、成長した潅木の「大きさ」が強調されています。「どんな野菜よりも大きくなる」というのがそれです。芥子の潅木は平均で1.5mほどの高さになるそうです。さらに最近の研究によると、芥子は漬物の薬味にしたり、すりつぶして湿布にしたりするために栽培もされていたけれど、もともと非常に繁殖力が強く、畑に植えられた他の作物の間にも入り込んで成長してしまう。だからユダヤ教の教師たちは、芥子を、モノカルチャーを壊すもの、つまり宗教的・祭儀的な意味での「穢れ」をもたらしかねない危険な植物と見なしていた、とのことです。すると、イエスが強調する「芥子の大きさ」は、単に背が高いというだけでなく、横にも境界線を越えて広がって行く「雑草」のような繁殖力を暗示している可能性があります。

 

そして最後に、〈大きな枝を張る〉というところでは、その「大きさ」に、「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど」という特別な説明がつけられています。種まきで始まった話を「鳥が巣をかける」というコメントで終えるのは、ちょっと意外です。ひょっとすると、鳥たちは芥子の実りを全部食べてしまうのではないでしょうか。それはともかく、芥子は一年草ですから冬には枯れてしまいますし、しょせん鳥たちが巣をかけるほどの立派な木ではありません。その枝は、小さな突風が吹けば、折れてしまうのではないでしょうか。

 ところが旧約聖書には、大きな世界帝国を、巨大な樹木のイメージで描写する伝統があります。しかもそこに「空の鳥たち」というモチーフが出るのです。例えば、エジプトの王ファラオが次のように描かれている個所があります。

 

「見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。その枝は美しく、豊かな陰をつくり、丈は高く、梢は雲間にとどいた。水がそれを育て、淵がそれを大きくした。淵から流れる川は杉の周りを潤し、水路は野のすべての木に水を送った。その丈は野のすべての木より高くなり、豊かに注ぐ水のゆえに、大枝は茂り、若枝は伸びた。大枝には空のすべての鳥が巣を作り、若枝の下では野のすべての獣が子を産み、多くの国民がみな、その木陰に住んだ」(エゼキエル31,3-6)。

 

ファラオの帝国は、雲にも達する巨大な一本杉のようであり、その大枝の陰には、世界中の民族が「空の鳥」のように集まり、巣を作って平和に暮らすことができる、と言うわけです。やがてユダヤ人たちは、エジプトやバビロニアではなく、自分たちこそが諸民族に和合をもたらす「世界帝国」の担い手になるのだ、という希望を抱くようになります。神は必ずメシアを起こしてイスラエルによる世界支配を打ち立て、そうして人類の夢である世界平和は実現するだろう、という期待です。

 

III

いろいろな民族が「神の支配」のもとで平和に生きる、そんな時がきっと来る、という古代イスラエル人たちの夢は、今に至るまでそのアクチュアリティーを全然失っていません。経済・軍事を中心に統合を進めているヨーロッパの真中で民族紛争が返って激化し、大量の難民が「巣を追われた空の鳥」のように、地雷の埋まった国境をさ迷っています。帰郷した故郷で彼らが見たのは、破壊と憎しみです。南アジアでも似たようなことが起こりました。また極東アジアでは、アメリカと中国という二つの軍事・経済大国が水面下でつばぜり合いを繰り返し、その木陰に住む「鳥たち」のもとに、大量の武器や商品を送りこんでいます。一体いつになったら、「人間の欲望と抑圧」ではなく、「神の正義」が支配する平和の王国は来るのでしょうか? それともそれは、しょせん見果てぬ夢に終わる他ないのでしょうか?

 

IV

私はこの三月まで、スイスのチューリヒに家族で住んでいましたが、近所に、コソボからやってきたアルバニア人の一家がいて、そこに三人のかわいい子供たちがいました。でも一番上の女の子は、道で会うと、いつも一人ぼっちで歩いていました。下の二人の弟たちは、両親が共働きだったせいで、学校や幼稚園が終わった後も街中を自転車で走り回り、スーパーやキオスクの前にたむろして、暗くなるまで路上で遊んでいました。そして、しばしば近所の友達の家に上がりこんで長居をするので、同じ年ごろの子供を持つスイス人の家庭からは、正直なところかなり迷惑がられていました。彼らのお母さんはドイツ語が全然話せませんでしたし、無口なお父さんはいつも悲しげな顔をしていて、ちょっと近寄り難い雰囲気がありました。

 そんなある夏の日、その三人の子供たちが、うちの子供たちと遊びたい、と言って我が家にやって来ました。私は娘たちに「絶対勝手によそに行かないように」と言いつけた上で、駐車場になっていたアパートの中庭で一緒に遊ばせることにしました。、そして台所の窓を開け放して、声が聞こえるようにしておいたのです。すると退屈していた子供たちは、当然と言うべきでしょうか、実に楽しそうに遊びました。西ヨーロッパの裕福な都会の片隅で、極東アジアからやってきた貧乏留学生の子供たちと、東ヨーロッパの故郷を逃げ出してきた難民の子供たちが、彼らにとって異国の言葉であるチューリヒ方言のドイツ語で互いに言い交わしながら、笑い声をあげて。そして彼らの上には、ゆうに25メートルはある楓(かえで)の巨木が、濃い緑の葉を揺らしていました。三つの黒い頭と三つの茶色い頭が動いているのを見下ろしながら、私はふと思い至りました。「空の鳥たちが巣を作れるほどになる」とイエスが言ったのは、こういうことなんじゃないか、と。

 

V

イエスは、「小ささ」の代名詞になっていた芥子種、当時の学者たちから「雑草」として危険視されていた芥子の潅木のイメージを用いて、「神の国」について語りました。まさにその芥子が「鳥たち」に生きるための場所を与えるだろう、と。小さな芥子種に秘められた命の力は、異国の駐車場で遊ぶ外国人の子供たちのように、たくましく、そして傷つきやすい。イエスが身をもって示した「神の国」が、「レバノンの一本杉」のような大帝国とは無縁のものであることは、自ずと明らかです。「救いをもたらす神の力」は、むしろ「小さな」そして「雑草」のようなものから育ち、そこに「鳥たちが生きるための場所」を創り出す。それは、大人たちの良識や偏見の隙間を縫って、子供たちの笑い声の、あの明瞭さで差し込んでくる一条の光のようです。この光のもとで、わたしたちは「芥子種」という言葉の新しい使い方を学び、私たち自身がその一部である周囲の世界は「新しい歌」を歌い始める。「神の国」は、このようなプロセス全体を貫いて、そこに巻き込まれて行く者たちに「救いをもたらす神の力」として示されるのです。イエスはこのことを、命をかけて明らかにしました。彼の十字架の死は、それこそ芥子種のような「いと小さき」命の「雑草」のような惨めな最期でした。そして復活したイエスに出会った弟子たちは、そのような命のあり方に「神の命」が最も純粋に現れていることに目を開かれたのでした。「神の命」という新しい文脈の中で、イエスは「鳥たちが生きるための場所」として、キリストとして経験されたのです。私たちも、自ら「芥子種」となったイエスのたとえに導かれて、この世界の現実の只中で、「神の命」の働きを見分ける、そのための想像力と感性を与えられたいと願います。



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