「死者の復活」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・11・14

「死者の復活」

村上 伸
コヘレトの言葉 3,1-11 ;コリント第一15,35-49

 

今日、我々は、この教会の関係者で先に天に召された方々を記念するためにここに集まっている。我々の教会は、この方々の祈りに支えられて今日を迎えることができた。このことを私は確信しているし、実際、彼らの祈りを受け継いで我々は今も歩みを続けているのである。ご遺族の方々と共に彼らを記念し、神の祝福に与りたい。

どの人にも、既にこの世を去ってはいるが忘れることのできない人の記憶がある。両親や祖父母、兄弟や姉妹。そして、親しい友人たち。私自身も、年齢を加えるに従って他の記憶は段々と薄れていくのに、あたかもそれに反比例するかのように、先に召された両親や、戦時中に戦死した兄、恩師の鈴木正久牧師、親しかった友達のことを、いよいよ鮮明に思い起こす。その名を呼びかける。対話を交わす。一体、これはどういう事だろう。

これを、「実も蓋もない」言い方で一笑に付す人々がいる。それは、単に私の「記憶」の中に残っているというだけのことに過ぎず、私が死ねば私の中に残っていた記憶も消滅し、家族や友人など、その縁につながる人々が死に絶えた後は、結局、すべてが無に帰する。死は一切の終わりであって、その後に何かが存在するなどというのは単なる感傷か、無知迷妄なる人々の迷信に過ぎない、というのである。

このように冷笑的な人々は、いつの時代にも、どこの国にもいた。だが、どんなに冷笑されても、民族や宗教の違いを超えて大多数の人々は「死が一切の終わりだ」という考えに納得していない。これは普遍的な事実であって、このことには意味がある。

死んだ後で、人はどうなるのか? 「死者の復活」はあり得るのか?

この問いは、今も述べたように、民族や宗教の違いを超えて普遍的であるが、さっき読んだコリントの信徒への手紙I 15,35-49は、これに対する新約聖書の一つの答えだ。パウロが「死者は復活する」と言った時に、それに疑問を呈した人々があり、パウロはその疑問に答えながら死者が復活するということを改めて力説しているのである。

種粒とそこから生えてくる植物の体の比喩は、ある程度説得的だ。種粒は畑に蒔かれると、種粒としては死ぬ。しかしその中から新しい生命が芽生える。そのように、「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43)。

つまり、人は死んで、その「自然の命の体」は葬られるが、「霊の体」に復活するのだ、というわけである。

この比喩は、確かにある程度説得的である。しかし、論理としては完全なものではない。その気になってアラ捜しをすれば、色々な所に破綻が見つかるであろう。そもそも、この問題を論理で説明することは難しい。パウロがここで言っていることの真意は、もっと深い所にあるように思われる。それは、人は死んで無に帰するというのではなく、神の生命の中に迎えられるという信仰だ。

 

鈴木秀子さんが、『死に行く者からの言葉』という本の中に、一人の老人のことを書いている。彼は、山の中で、すべての記憶を失って蹲まっている所を発見され、老人ホームに引き取られた。自分の名前さえ思い出せないこの老紳士は、「山のおじいさん」と呼ばれていたが、並々ならぬ教養を備えていることを言葉の端々に窺わせ、人間としての威厳があり、何気ない愛の行為には敏感に反応するといった不思議な存在であった。

やがて肺炎を患い、熱にうなされて意識もなくなる。そういう状態の中で何かブツブツ言っているようであったが、その不明瞭な発音が突然、明瞭な言葉に変わる。

「わが名を呼びてたまはれ

いとけなき日の呼び名もて

わが名を呼びてたまはれ」

三度、そう繰り返した後で、朗々とある詩が暗唱された。

「あはれいまひとたび

わがいとけなき日の名を

呼びてたまはれ

風のふく日のとほくより

わが名を呼びてたまはれ

庭のかたへに茶の花のさきのこる日の

ちらちらと雪のふる日のとほくより

わが名を呼びてたまはれ

呼びてたまはれ

わが名を呼びてたまはれ

幼き日 母の呼びたまいしわが名もて

われを呼びてたまはれ」

鈴木さんは、これが三好達治の詩であることに気づくのだが、これを口ずさんで間もなく、老紳士は死ぬ。誰も本当の名を知らないし、その名を呼んではくれない。そのまま死んで行くなどということに、人は耐えられようか。「わが名を呼びてたまはれ」。これは、彼の人生最後の哀切な祈りであったが、人類の祈りでもある。「死者が復活する」という希望は、正にこのことに関しているのである。人は死んで忘れられて無に帰するのではない。神によって永遠に記憶され、その名を呼ばれる。イザヤ43,1「死者の復活」とはそういうことだ。今日、我々が召天者の名を呼ぶのも、そのことを証しするためである。



The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help