「必要なことはただ一つ」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
99・11・7

「必要なことはただ一つ」

村上 伸
申命記 6,1-9 ;ルカ福音書 10,38-42

 

ある家庭で起こった話だ。姉のマルタは、イエスをもてなすために「あれもしなければならない、これもしなければ…」と心が急き、汗をかいて動き回っている。それなのに、妹のマリアは(ルカは「姉妹」と書いているが、これは妹に違いない!)気が回らないというか、ちゃっかりしているというか、手伝いもせずにイエスの側に腰を落ち着けて、夢中になって話を聞いている。姉は腹を立てて、イエスに八つ当たりする。どこの家でも見られる、日常の小さな出来事だ。

だが、それをきっかけにしてイエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである…」(41)と答えたというのである。この言葉は、人生の重大な真実に触れている。

 

先週の日曜は、宗教改革記念日だった。1517年のこの日、マルチン・ルターは免罪符問題に関連して「95箇条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に張り出した。このことが世界を変えたのである。一体、そこでは何が起こったのか。

ある神学者は、「事柄の単純化が起こった」と言う。人が生きていくために本当に必要なことは何か。ルターは、人生上のさまざまな悩みを感じながら、この問題をひたすら掘り下げて行く。そして、結局、ローマ書の中で非常に単純な真実に出会う。それは、神が我々を義として下さる、ということであった。

我々は罪人だ。自分で自分を義とすることはできない。どんなに正しい行いを心がけても、自分の行為によって自己を義とすることは不可能である。自分が正しい人間になるためにさまざまな条件を満たそうとしても、それは無駄だ。

ただ、神が我々を憐れみ、その恵みの手を伸ばして下さる。このことを信じる以外にない。だから、彼はこうも言った。「ただ、言葉にもならないうめきでしかない祈りでも、天に昇り、高らかに鳴り響き、神の耳に達する」。このように、罪人の祈りを聞き給う神の恵みを信ずる。人を生かすのは、結局この事に尽きるのだ。このことを、彼は「ただ信仰によってのみ」と表現した。

余分な枝葉を切り落とすと、肝心の根っこは一つしかない。真理は単純である!「善いサマリア人」の話の中で、イエスは律法の全体をこの意味で「単純化」して、律法の内容は要するに「神への愛と隣人への愛」だと言ったが、今日の個所でも、彼は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである…」と言う。イエスの言葉を聞くこと。神の国の福音を聞くこと。

金曜日の夜、NHKテレビで、「いのち再び・生命科学者柳沢桂子」という番組をやっていて、途中からだが見ることができた。

この人物は、生命科学の優れた研究者であったが、奇妙な病気に冒される。多くの医者にかかっても一向に良くならず、却って薬害などのために病状は悪化する一方で、遂には寝たきりになる。

私がこの人のことを初めて知ったのは、彼女が数年前に新聞に書いた文章によってだった。その中で彼女は、病気で絶望的になっていた頃、「神の前に、神と共に、神なしに生きる」というボンヘッファーの言葉に深い慰めを感じた、と書いていた。そのことから、私は彼女の書いた本などにも深い関心を寄せるようになったが、その内に、あるきっかけで彼女の自宅に招かれた。その頃は病状がやや好転して、もう寝たきりの状態ではなく、良い話し合いができた。

だが、私は知らなかったが、一昨夜のテレビによると彼女は何度も死を選ぶことを考えたと言う。それを思いとどまったのは、「自分が生きていることを望む人がいる」という、最も単純な事実だった。ご家族、とりわけ夫や娘や孫。

その後、彼女の病気は、ある薬との出会いによって劇的に好転する。テレビで見ると、ベッドから立ち上がって歩くことができるようになり、台所で水仕事を「楽しむ」こともできるようになった。最後は、夫と共にゆっくりと町を散歩する場面で終わる。思わずほっとする。

柳沢さんは、この番組の中で、「生かされている」という言葉を何度か使った。人間の体は何十兆と言う細胞の集まりであり、その一つ一つの細胞には何十億年と言う生命の歴史が詰まっている。科学はそのことを明らかにすることができたが、しかし、その細胞が集まってできている私という存在が病気になって苦しんだり、癒されて喜んだりするということまでは説明することができない。ある大いなる存在を感じる。それによって「自分が生かされている」と思わないわけには行かない。彼女が大きな苦しみの末にたどり着いた結論は、この単純な真理であったようだ。

ベルリンで、会議が終わった後、時間を作って14年前に亡くなった親友の遺族を訪ね、その墓を訪れた。小さな墓石の上には、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」という創世記1章5節の言葉が刻んである。神が、そもそもの初めに天地万物を創造された。天地万物の、従って我々一人一人の生存を、神は望み給うた。この神の意志、生きよという意志から世界は、そして我々の一生は始まったのだ。「夕べがあり、朝があった。第一の日である」という聖句を自分の墓碑銘として刻ませた彼の気持ちが分かる。

マリアが一心に聞き取ろうとしていたのも、そのような単純な真理ではなかったか。



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