「聖霊を信じる」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

今日は聖霊降臨祭である。この日に起こったことは、使徒言行録 2,1-4によると次の通りである。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」

「五旬祭」というのはユダヤ教の三大祭りの一つで、麦の収穫を祝う祭り、また同時に、モーセがシナイ山で神から律法を授かったことを記念する日であったと言われる。過越祭から数えて50日目に当たるので、五旬祭というのだが、後にキリスト教会では、今読んだような出来事に因んで、この日を「聖霊降臨祭」として守るようになった。「ペンテコステ」というのはギリシャ語で50という意味である。

先週、「霊」(ルアーハ)とは、旧約聖書では元来、「風」とか「息」を意味していたと述べたが、聖霊降臨の日には、正に「激しい風が吹いて来た」のであった。風には形がないから、自由にどこにでも入って行ける。神の霊は、何の妨げもなく自由に弟子たちの心に入り、彼らを動かした。その結果、「一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに話し出した」という。

この後でペトロが語る。三度、「イエスのことなど知らない」と言って主を裏切ったペトロ、そのために深い挫折感を味わい、全く自信を喪失していたペトロが、3000人の人の心を動かすほどに力強く語った、と使徒言行録は言う(2,40)。聖霊に満たされる時、人はこのようにも語ることができるのである。この日に起こったことは、「言葉の奇跡」と言ってもいい。

多くの神学者が、この日の出来事を創世記 11章の「バベルの塔」の話と関連させて理解しているのは、理由のないことではない。それによると、人間は「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(11,4)という傲慢不遜な企てを立てる。これは神の御心に適わなかった。そこで神はこれを止めさせるために「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにした」というのである。人間は、エゴイズムや高ぶりに支配されると、互いに言葉は通じなくなる。だが、それはペンテコステの日に元通りに通じるようになる。聖霊に満たされた弟子たちが「ほかの国々の言葉で話し出した」のは、突然ほかの民族の言葉を話し始めたという意味だが、もちろん、突如として語学の才能が現われたというわけではない。聖霊は、あるべき姿に回復させる神の力である、ということを指し示している。

孫の拓がこの春、「キリスト教海外医療協力会」主催の中高生ワークキャンプに参加してネパールに行ってきた。その時の経験を今度の「たより」に書いている。ネパール語は全く分からないのに、出会った人々の話は良く理解できた、という。人間としての善意があれば心は通じる、ということなのだろう。皆さんも、同じような体験をされたことがあるのではないか。

逆に、言葉としては分かっているのに、わけが分からないという例も多い。

木下順二『夕鶴』は、人間に化身した鶴(つう)の愛と真実が人間の欲望によって踏み躙られるという哀切な物語だが、その中に印象的な場面がある。つうが愛する夫よひょうのために自らの羽根を使い、真心を込めて美しい織物を織るのだが、周りの欲張りな男たちがこれを金儲けのために利用しようと考える。気の弱いよひょうは、彼らに説得されて、つうに「もっと織れ」と要求する。「どうしてそんなにお金が欲しいの?」という夫婦間のやり取りがあって、遂につうは、「あなたがたが話している言葉が分からない」と、身をもむようにして嘆く。

これは恐ろしく現代的な意味を持っている。

今、我々は根本的に言葉が通じない世界に生きているのではないか。外国語を習えばいいというような次元の問題ではない。もっと深い所で言葉が通じないのだ。イスラエルとパレスチナの間で何度「和平合意」がなされてもすぐ破られるのは、その痛ましい実例だ。ユーゴで、チェチェンで、アフガニスタンで、チベットで、インドネシアで、フィリピンで、そして日中の間で、日韓の間で。

同じ日本語を話す者たちの間でもそうだ。いく度我々は空しい言葉をやり取りし、もどかしい思いで空転する論議を聞くことであろう。そして今や、幼い子供が発するメッセージは親に伝わらず、何かを求めて発信される中高生の苦しい叫びは教師たちの元に届かない。自己中心的になった人間の間では、言葉が通じない。

だが、聖霊が来る。聖霊が我々を満たす時、我々は本当に互いに通じる言葉で語ることが出来るようになるであろう。それは、「何となくインスピレーションを受ける」というようなこととは違う。

コリント第一 12,1-3 は、聖霊を端的にイエスと結びつけている。「神の霊によって語る人はだれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(3)。これは重要な点だ。

このイエスは、「自分を無にして、僕の身分となり、…へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」(フィリピ 2,7)あった。この方を十字架上で神に見捨てられた哀れな人物とは見ないで、「主」、つまりこの世を支配すべき最も大切な真理として認識する。これを可能にするのが、聖霊なのだ。


 
 

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