ここはパウロ独特の主張が展開されている箇所で、論理は少々回りくどく、「分かりにくい」と感じる人も多いだろう。全体を大雑把に見ることから始めたい。
最初に、「肉」とか「霊」とかいう言葉が際立って多いこと気づくであろう。私が数えたところでは、この短い段落に「肉」が10回、「霊」は11回出て来る。しかも、これらは大抵ペアで現われる。対立概念であることは明らかで、その典型は6節だろう。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」。
ここで「肉」というのは、差し当たりは、「肉体」のことだと言っていい。
西洋では、ギリシャ哲学(プラトン思想)の影響もあって、「肉体」は、「精神」よりも価値の低いもの、もしくは「精神」と矛盾するものと考えられてきた。「肉体は精神の牢獄である」とは、プラトンの有名な言葉である。明治になってから西洋思想の影響を受けた日本でも、しばしば「精神と肉体の葛藤」という言い方がされたものだ。現代ではかなり様子が変わってきて、明治・大正期に青白きインテリを捉えた「精神と肉体の葛藤」などという悩みは、一見したところ、どこかに消えてしまったかのように見える。だが、本当は消えたのではない。形を変えて残っている。
一昨日、池田市の小学校で起こった恐ろしい事件は我々を震撼させた。正確な事情はまだ分からないが、あの包丁を振り回して小さな小学生を次々に刺し殺した人物は、「精神安定剤」を常用する「薬物中毒者」かもしれないと言われている。この人に限らず、ドラッグは現代世界を蝕む大問題だ。人々は麻薬や薬物によって「精神を安定」させたいと願い、やがて中毒にかかった肉体は、いよいよ「精神の安定」を願って際限もなく薬物を求め続け、それが昂じると異常な行動に走ることも稀ではない。「肉体」は、このように人間を振り回す。
現代は、「肉体」の美しさ・素晴らしさが強調され、「欲望」も肯定される時代である。この肯定的な思想が全部間違っているとは思わない。聖書においても、「肉体」は神が造って下さったもので、重要な意味を持っている。パウロが「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」(コリント第一 6,19) と言うように、これを一概に「悪いもの」とか、「価値の低いもの」とか決めつけるのは正しくない。 だが「肉体」は反乱を起こすことがある。昔も今も変わらない。
しかも、肉体は本質的には弱いものなのだ。朝元気で学校に行った子供たちが、冷たい骸になって帰って来る。何ということか。我々の肉体もそうだ。今は調子が良くても、いつ何が起こるか分からない。脆くて、すぐに病んだり、疲れたりする。そして最後は、必ず死んで土に返る。「肉なる者は皆、草に等しい。…草は枯れ、花はしぼむ」(イザヤ書 40,6)と言われている通りである。
むろん、我々の肉体は一人一人みな違う。体の丈夫な人もいれば、そうでない人もいる。しかし、肉体は本質的に弱い。だが、神はこの弱い肉体を我々一人一人に与えて、「これで生きて行きなさい」と命じているのである。
パウロは、つらい持病を持っていた。何度となく、「この病気を取り去って下さい」と神に祈ったが、遂に癒されることはなかった。その中で、彼は驚くべき洞察に達する。この弱さは、自分が「思い上がらない」ために肉体に与えられた刺なのだ、そして、「神の力はこの弱さの中でこそ発揮される」(コリント第二 12,9)というのである!
このパウロの視線に注意したい。
彼は、自分の肉体が持つ可能性を誇り高ぶることもなく、かといってその弱さに絶望することもない。要するに、人間を中心にして考えることをしない。どんなに弱い肉体でも、それを自分に与えて下さった神に注目する。
パウロはここで、自分の肉体が持つ可能性(その美しさ・運動能力の高さ・頭のよさ等々)を誇り高ぶったり、逆にそれが「劣っていること」に打ちひしがれたり、要するに、「自分の今の有り様だけを基準にして」考えることを「肉」と言っているのである。この「肉に従って歩む」(5)時、人は高ぶり、常に自分で自分を正当化しようとする。この生き方は、「神の律法に従ってはいない」(7)。だから、「肉の思いに従う者は、神に敵対している」(7)。「肉の思いは死である」(6)。従って、「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」(8)。
その正反対の考え方・生き方が「霊に従って歩む」(5)ということなのである。先程私は、パウロが、どんなに弱い肉体であれそれを自分に与えて下さった神に注目していた、と述べた。もっと正確に言えば、「自分の今の有り様だけを基準にして」考えることをせず、イエス・キリストに注目した。我々と同じ肉体を取ってこの世に生まれ、我々が経験するすべての悩み・苦しみ・悲しみを味わい尽くして十字架上に死んだイエス。正にそのことによって「罪を罪として処断し」(3)、しかも復活によって我々を「罪と死との法則から解放した」(2)イエス。この方に注目し、この方が「あなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となる」(10)。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である」というのは、こういう意味だ。この神の霊が我々の内に宿るように祈りたい。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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