「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(35)。
この言葉は、4章23節にもほとんどそのまま出て来る。多くの学者たちはそこに目をつけて、4章23節と9章35節がいわば「括弧」のような役割を果たしている、と言う。つまり、これに囲まれた部分が一つの大きなまとまりを成している、というわけだ。そして、その内容は、イエスの初期の活動である。
この時期のイエスの活動には重点が三つあった。「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあるように、「教えること」と「御国の福音を宣べ伝えること」、それに「病気を癒すこと」である。
この三つの中心は、やはり「御国の福音」であったろう。「御国の福音」とは、4章17節の「天の国は近づいた」というメッセージのことである。マルコでは「神の国」だが、要するに、「神の支配」を意味する。――この世界は、今は悪によって汚され、人間は罪と死によって支配されているように見えるが、そのような時は必ず終わる。悪と罪と死と絶望の支配は必ず終わって、神の真実の支配、善と真理と命と希望の支配が始まる。その時が近づいている、とイエスは告げる。「天の国は近づいた」!この福音(ユーアンゲリオン)、これは「喜ばしい知らせ」という意味であるが、これを告知することこそ、イエスの地上における活動の中核であった。
この「御国の福音」から出発して、イエスは会堂で「教えた」。つまり、人間の生き方を教えた。5-7章の「山上の説教」などがその具体的な展開だが、その他にも、印象的な言葉で弟子たちに生き方を教え、イエスに従って生きることを求めた(8-9章)。
だが、彼は単に言葉で教えただけではない。ありとあらゆる病気や患いを「癒した」。「らい病人」にも敢えて触った(8,1-4)。これは「ハンセン病」と同じではないが、重い皮膚病であって、レビ記は触れることを禁じている。また、高熱で苦しんでいた「ペトロのしゅうとめ」の手に触れた(8,14-17)。「長血の女」がイエスの着物の房にそっと触るのを黙認もしたし(9,18-26)、二人の盲人の目に手を当てるなど(9,27-31) 、まるで自分の体に触るようにして、手の温もりを伝え、病気に悩む人々を癒した。
このように、福音宣教と教えと癒しが、イエスの活動の「三本柱」であった。これは、我々の教会の在り方を考える時に良い目標となろう。
さて、こうした活動を続けながら、イエスは「町や村を残らず回った」という。普通の「町や村」ではない。4章23節には、「ガリラヤ中」と書いてある。当時のガリラヤは、神殿のあるエルサレムから遠く離れた辺境の地であって、「異邦人のガリラヤ」とか、「暗闇」とか、「死の陰の地」(4,16)とか言われていた地方である。そこには、差別を受け、誰からもまともには相手にしてもらえない人々、そのために生活に難渋し、病気になり、前途に希望も持てないでいる人々が大勢いた。イエスは、そのような「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9,36)という。
何を、どのように「見る」か。これが問題である。
イエスはある時、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か」 (11,7)と弟子たちに問うたことがある。「何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる」。
人は、人生の成功の階段を上り詰めて「しなやかな服を着た人」や、「王宮」の華やかな栄光を見たいと願う。それにあやかりたいので普段から美しいもの・豪華なもの・ゴージャスなものに憧れ、悲惨なもの・汚いものからはなるべく目を背けようとする。あるいは、個人的にも民族的にも自らの誇りを保つために、「自慢の種」になるものに注目し、逆に、恥ずべき過去や過ちからは目をそらそうとする。今話題の「歴史教科書」の意図はそれだ。我々は今、何を、どのように見ようとしているのか。そして何を、どのように見ているか。そのことが問われている。
イエスが先ず見たものは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々」であった。この世界の中で共に生きていて、しかも苦しんでいる隣人であった。多くの人が故意に目を背ける人々を、彼は先ず見た。そして、「深く憐れまれた」。この原語は、「断腸の思いをした」という意味だ。つまりイエスは、その人々の痛み・苦しみを自らのものにするような仕方で見るのである。これが、神の視線である!
そして、イエスは弟子たちにこう命じる。「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」(38)。この意味は、要するに、あなたがた一人一人がイエスのような目を持つ働き手になりなさい、ということだろう。なすべきことは無限にある。
マザー・テレサは、正にこのイエスの招きに応じた人であった。彼女はカルカッタで、誰からも顧みられないまま路上で死を迎えようとしている人々を見た。そして、深く憐れんで、その人々を彼女の施設に迎え入れ、死ぬまで彼らを見取った。もう健康を取り戻すことは不可能かもしれないが、せめて、誰かが見守っていてあげなければならない。それが、この世界が神によって造られたものだということの証しとなる、と彼女は信じたのであった。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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