1517年10月31日、マルティン ルターはウイッテンベルグの教会扉に95ヵ条の意見書を提示しました。その後の経過については、世界史の教科書にも載せられているので教会外の人々にも良く知られている所であると思います。聖書の御言葉による教会の改革を求めたこの運動は、プロテスタントと呼ばれる新しい教会を生み出して、従来のローマ・カトリック教会とたもとを分かつようになりました。しかし、およそ500年近く経った現在、新旧両教会は今、新しい教会を目指して同じ方向に歩みを一つにし始めています。エキュメニカル運動、教会合同への運動は今、私たちが手にしている新共同訳聖書を生み出しています。これは何よりもカトリック教会自身が1964年に行った第二ヴァティカン公会議を通して大きく教会を変革してきたことによるものであります。「教会の外に救いはない」、としていたカトリック教会がプロテスタント教会ばかりでなく、他宗教、他宗派とも協力して、神の国を地上に現す、共同の働きを、とりわけ、アジアや、アフリカ、ラテンアメリカなどで繰り広げ、大きな成果を収めつつあるのが現在の姿であります。このような時期に、プロテスタント教会が宗教改革記念日を持つ意味はもはや消滅してしまったのでしょうか。それかあらぬか、近ごろ、私たち日本基督教団に所属している教会でも宗教改革記念日を特別に守るような取り組みは少なくなっているようです。私はオルガニストの吉田實先生と30年にわたって同じ教会で仕事をしておりましたので、10月の最終日曜日の礼拝がバッハ、もしくはプクステフーデのEin feste Burg(神は我がやぐら)のオルガン前奏ではじまり、以前の讃美歌267番をもって進行していくのを心地よく、まるで、クリスマスや、イースターのように楽しみに、この日を迎えたものでした。10月31日が日曜日にあたることなど滅多に無いことなので、本日は敢えて時代に逆行するかも知れませんが、宗教改革記念の礼拝として持つことをお許し頂きたいと思います。「絶えず改革され続ける教会のみが真の教会である」と宗教改革者が述べていることを思えば、これは500年前のヨーロッパだけの問題ではなく、私たちの課題であります。絶えず改革され続ける教会もその経過や歴史を尋ねると、必ずそこには、旧い伝承に目を向け、それを新しい状況に現して行こうとする働きのある事が分かります。私たちの教会も、また個人の信仰も旧い伝承に学び、それを今の生活に生かそうとする営み以外の何物でもありません。生ける神の業は何よりも先ずその昔に現されました。聖書がその偉大な出来事を伝えています。それを読み、伝え聞く人々に、神の業は生きて働き、新しい命となって歴史を変えていくのではないでしょうか。ルターの中にそのような働きが現されているように思います。
讃美歌21の377番は(以前の讃美歌では267番)ルターの働きを想いおこす上で欠かす事の出来ない讃美歌であります。私たちはこの歌を歌うことによって482年前の出来事を今に移し替え、次の世代に歌い伝える手立てを持っているのであります。そのルター自身は、この力強い歌と働きを聖書から受け継いでいる所に注目したいと思います。詩編第46編をお読みになればルターが如何にこの詩編から触発され、新しい時代の状況に置き換えて、377番が謳われている様子がお分かりになる筈です。すなわち、46編の2節からルターは会衆が共に与かるべき旧くて新しい歌を作っています。
「神は私たちの避け所、私たちの砦、苦難のとき、必ずそこにいまして、助けて下さる。」
そこまでは、詩編と全く、同じ内容が讃美歌377番でもうたわれています。
「神はわが砦、わが強き盾、すべての悩みを、解き放ちたもう」
この後詩編46編は天変地異の大変動が起きたとしても「わたしは決して恐れない」と述べているのに対して、ルターは、これを時代の状況に置き換えています。(267番の方が良い)
「おのが力、おのが知恵を頼みとせる、陰府の長も、。」
(ちなみに讃美歌21の377番では:「悪しきものおごりたち、よこしまな企て持て、戦いを挑む。」(下線部が21には無い)
Eln feste Burg(神はわが砦)のどの節にも詩編46編がベースに敷かれ、その上にルターの教会的状況が織り込まれている所は、讃美歌と詩編を並べてご覧になると、すぐにお分かりになる筈です。すなわち、377番の第二曲は詩編46編の7節が基盤となり、第三曲は詩編の9節、10節が、そして第四曲は詩編の11節がベースに据えられています。
また、礼拝の初めの讃美歌として、50番を歌いましたが、これもルターによる、宗教改革運動には欠かせない讃美歌であることを、覚えて頂きたいと思います。この讃美歌は詩編36編をベースにしていることが分かるのですが、ルターは、次のように述べています。「人がこの信仰の歌を歌うとき、悪魔は遠くへ逃げて行く」。詩編36編は46編にも増して、激しい戦いの歌であることから、そのようにルターも語っているのであろうと思われます。
36編12節「神に逆らう者の手が、わたしを追い立てることを許さず、騎る者の足が私に迫ることを許さないでください。」13節「悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され、再び立ち上がる事は無い。」あまりにも激しい歌なので、ルター結びの曲に新約聖書の霊による執り成しと祝福を祈る歌をもって閉じています。
「みたまよ、我らを一つとならしめ、終わりの時には命をたまえや。」(第二編105番)
ルターが1520年6月に所属していたローマ・カトリック教会から破門された後、およそ3カ月経った10月に宗教改革の基本精神が盛り込まれた、『キリスト者の自由について』を著しました。その冒頭で彼は以下のように述べています。
「キリスト者とは何であるか。そしてキリスト者となるためにキリストが働いて与えて下さった自由をどうすれば得ることが出来るのか、この事について聖パウロは数多く記しているが、我々も基本を抑えて知ることが出来る様にするために、私は次のこつの命題を掲げたい。
〈第一命題)
キリスト者は全てのものの上に立つ自由な君主であって、何ものにも従属しない。
〈第二命題)
キリスト者は全てのものに召し使える奴隷であって、万人に従属する。
私たちが常識的に抱いている「自由」とはルターで言えば、第一の命題ではないでしょうか。規則や束縛から規制や制約を受けない状態を指して「自由」を思い描いています。しかし私たちは今までに、こうした意味で自由を得たことがあったでしょうか。「自由」をもしこのように「束縛されない状態」という側面でのみ夢見ている人は、自由にはなりえない。しかし牢獄にあってさえ、自由でありえた人を私たちは、一方で知っています。今朝の聖書テキストを著したパウロです。彼はガラテヤ書5章2節以下でこう述べています。「ユダヤ人のトレードマークとして体の一部を切り削るような割礼を受ける人すべてに私はもう一度はっきり言っておきます。そう言う人は律法全体を行う義務があるのです。出来もしないのに自分の行為で正しさをしめそうとするなら、君たちがだれであれ、キリストとは全く関係のない者とされ、せっかくキリストの恵みをわずかながら知りかけていたのに無くしてしまうのです。しかしキリスト・イエスに結ばれていれば割礼の有る無しは問題ではなく、愛によって働く信仰だけが意味を持っているのです。」
「愛によって働く信仰」、これこそが牢獄にあっても自由であり、孤立させられていても、牢獄の外にいる多くの人々と交わりを持った「自由の人」パウロの姿であります。
ルターが先の第一命題をなぜ言えるのか。それはガラテヤ書から得ていることは明らかです。5章1節を含めてパウロはそれまでに7回用いてきた「自由」という言葉を奴隷状態からの解放として語ってきました。しかも「キリストが解放して下さった自由」である、と言うことです。私たちには倣うべき模範がある。だから自由であり、一見矛盾するような第一と第二の命題を一つにする「自由」に与かることが出来るのであります。ガラテヤ書に即してルターの命題を見るならば5章1節まで述べられた「自由」が第一命題であるのに加えて、5章13節から6章10節にかけては第二の命題が示されています:「だからあなた方は自由へと召されたのです。ただ、自由を自己保身への糸口としないで、むしろ愛によって互いに仕え合いなさい。」キリスト者は心の束縛から解放された自由(第一命題)を持って、万人に仕える喜ばしい使命を授かるのであります。隣人を自分のように愛する自由(第二命題)であります。
ヨハネ福音書8章31節以下でもルターが二つの命題を引き出す根源的な内容を読み取ることが出来るでしょう。「わたしの言葉にとどまるならば、あなた方は誠にわたしの弟子である。また真理を知っている。そして真理こそはあなた方を自由にするのです。」
ヨハネ福音書もパウロと同じく、キリスト者の自由を「愛」とむすびつけていることが分かります。「これらの事を話したのは、わたしの喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(15章11~12節)。
英語に自由を表す言葉が二つあることはご存知のことでしょう。一つはでありいま一つはです。アメリカの南北戦争で民衆が手に入れる事の出来たのは奴隷を解放するとしての自由でした。あれから100年経って、1960年代後半には公民権運動のなかで、民衆はを求めて闘いました。とはFrijon -> Freon(愛)のdom(国、所領)と言う意味をもっています。私たちが本物の自由に与かることができるのは、この愛の国をおいて他にありません。いま、わたしたちに最も欠けていて必要なものはこのような意味での自由ではありませんか。「わが命も、わが宝も、取らば取りね、神(愛)の国はなおわれにあり」
(Eln feste Burgの第四節でルターの原文を忠実に訳せば:「命、宝、名誉、子供も妻も取るならば手放そう。そうしたものに勝利はないのだから。神の国はそれでもわたしたちの内にとどまっている。)
聖書が示す自由は愛と同列のおかれていることに注目したいと思います。「自由と責任」ではなく、また「自由と義務」でもなく、「自由と愛」が同じ重さで並んでいるのです。自由から程遠く、愛の国からも遠く離れた私たちが本来の自由に与かるために、イエスは私たちを召し集めて下さいました。創造の秩序に帰るために、復活の命に与かるために、そして誠の自由を得るために、パウロやルターに倣ってイエスの弟子となり、この心貧しい世界を、愛の国、神の国となすべさ喜びの自由にむかって、踏み出すことが礼拝を捧げる私たちに今、託されています。「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だからしっかりしなさい。奴隷のくびきに二度と繋がれてはなりません。」
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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